今このときのための今までだったと思う
(『わかりやすい恋』銀色夏生/1987年12月/角川書店)
高校時代に合唱というライフワークに出会ったとき、
部活の仲間に紹介された一冊の中のフレーズ。
音楽はまさに一期一会。
目の前の一曲一曲に、
一生懸命取り組もうと誓った15の夜。
モデルの森高千里さんの魅力も相まって
詩を読み解く楽しさに取りつかれた15の夜。
それから30ウン年、
ずっと私のそばには合唱があった。
しかし、自身の持病もろもろの環境の変化により
とうとう歌い手としての合唱の旅は、
終わるときがきたようである。
自分のひとつの旅のひと区切りとして、
歌って大好きになった個人的ランキングと
歌っていないけど大好きな個人的ランキングを
勝手に紹介して、自分なりのけじめとしたいと思う。
思い出は沢山ありますが、組曲単位としよう。
混声合唱の部(歌ったことがあるもの)
三善晃『地球へのバラード』
大学時代に歌った組曲で一番思い出に残った。
1曲目「私が歌う理由」の、曲中で転調する意味について
仲間と酒を飲みながら延々議論したことを思い出す。
團伊玖磨『筑後川』
初めて歌ったのは、
大学時代でOBOG合同ステージだった。
現役2年生だったこともあり、
前後左右に気を使ってへとへとだった(笑)
しかし、そんなことも今となっては
この組曲の壮大さの前では些末なこと。
「川の一生」という面だけでなく、
「川という英雄」という面で詩と曲を読み返してみると
見えてくる世界があるかもしれない。
特に2曲目「ダムにて」のテナーソロとソプラノソロが
合唱ではなくソロである理由が想像できると、
がぜん面白くなってくるかも。
その意味で、おすすめの本が下のリンクの「千の顔を持つ英雄」です。
う~む。團伊玖磨は、すごい。
三善晃『動物詩集』
高校時代に歌った組曲で一番印象に残った。
特に2曲目の「ひとこぶらくだのブルース」の
白石かずこの詩に胸を撃ち抜かれた。
・・・なんて曲だ。
当時の自分には
まったく容量の図れない
懐の大きな曲だった。
この曲に関しては
もう一つの詩の思い出が。
「ぼろぼろな駝鳥」
高村光太郎
高校の教科書にのっていた
この高村光太郎の詩とあわせた二編。
「ひとこぶらくだのブルース」「ぼろぼろな駝鳥」は、
ずっと自分の中の大きな部分をしめているように
感じている。
混声合唱の部(歌ったことがないもの)
荻久保和明『季節へのまなざし』
高校、大学、社会人と縁があった混声合唱団で、
ことごとくタッチの差で演奏したばかりで
歌う機会に恵まれなかったのである。ぐすん。
「あー、ちょうどこの前の演奏会で歌ったばかりだわ~」。
不思議なめぐりあわせですね。
3曲目「みのる」の中間部。
低音から10小節にわたって
半音または全音でじわじわと上昇していく
ベースの旋律はまさに奇跡。
「♪ひとの心にひそかに実る/
ことばと愛と思い出とほろにがい香り/みえない実り」の
詩とハーモニーについて、
夜通しノンアル片手に語り合いたい。
初めて聴いてから30ウン年たった今でも笑。
男声合唱の部(歌ったことがあるもの)
多田武彦『雪明りの路』
何しろ、人生で初めて歌った男声合唱組曲なので
思い出もまた格別なもの。
『伊藤整の詩から』ではなく、
伊藤整の詩集『雪明りの路』を組曲名として
名付けたのは何故だろう?
という問いは、常に心のどこかにおいて向き合いたい。
また、1曲目の「春を待つ」の出だしの
ソレソシのG-dur10度のハモリ。
多田武彦の他の曲でも時々みかける。
(例;『尾崎喜八の詩から』の「春愁」、
『中原中也の詩から』の「月の光」)
ここぞというとき、物語が始まるとき、
人生の転換点などの印象を受ける。
もっというと、
多田武彦の師匠である清水脩『月光とピエロ』の
1曲目「月夜」の影響も受けているかもしれない。
多田武彦の曲で、
時折このハモリにでくわすけれども
その度にビクっとするのは私だけではないはず。
そんなわけで組曲の出だしから
いきなりガッともっていかれてしまう。
この曲集には
『尾崎喜八の詩から』『北斗の海』という名組曲も
収録されているのでそちらもおすすめ。
多田武彦『優しき歌』
多田武彦が題材とする詩人は様々であるが、
混声合唱畑では立原道造はよく歌う機会もあった。
そのためか、男声で立原道造?というイメージがあったのは
正直なところ。
しかし、大人になって男声で歌うとこれがまたしびれるしびれる。
詩人の世界観と作曲家の世界観それぞれに思いをはせながら、
思い切り歌うことの楽しさや難しさをしった組曲。
髙田 三郎『水のいのち』
古典中の古典だけど、やっぱりはずせない。
1曲目「雨」のなかで
「♪すべて許しあうものの上に/♪また許しあえぬものの上に」
というフレーズがあるが、
なぜ「許す」「許さない」ではなく
「許しあう」「許しあえぬ」なのか。
そのニュアンスと意味を考えるだけで
ご飯三杯はいける。
男声合唱の部(歌ったことがないもの)
多田武彦『わがふるき日のうた』
うそ~まじで~。
ほんとにめぐりあわせですね。
こんなに好きなのに。
多田武彦『雪と花火』
この曲集には多田武彦のデビュー作『柳河風俗詩』も
収録されているので、合わせ技で。
本組曲は3作目の作品。
特に終曲の「花火」は、
詩人北原白秋と作曲家多田武彦による
第一の旅の終わりを飾るに相応しい名曲。
多田武彦がユニゾンとオクターブユニゾンにこめた思いに
ずっと浸っていたい。
私たち一人ひとりの中には
守るべき約束があり
眠りにつく前に進むべき
道程がある
-ロバート・フロスト(詩人/1874-1963)
いやあ、
実に楽しかった。
実に愉快だった。
歌った曲の数だけ
たくさんの人生の喜怒哀楽を
味わうことができた気がする。
まだまだ歌っていない組曲は
星の数ほどあるから
じゅうぶんではないかもしれないけど
悔いはない。
これからは、
合唱好きの観客として
ホールの客席や自宅のステレオの前から
声援をおくる側になるけれども
合唱に対する思いはきっと変わらない。
それでいい。
それがいい。
さて、これで私のひとつの旅はひと区切りついた。
しかし、まだ旅(乗り鉄)と読書の旅は
まだまだ終わらない。
(完)
妻「えらくかっこよくまとめてるけど
このブログはどうするん?」
夫「別サイトでやってた書籍紹介でも
ゆるやかにやろうかと」
妻「・・・遠くに現地調査に行く前には目の前の一曲一曲に、
一生懸命取り組もうと誓った15の夜。
モデルの森高千里さんの魅力も相まって
詩を読み解く楽しさに取りつかれた15の夜。
それから30ウン年、
ずっと私のそばには合唱があった。
しかし、自身の持病もろもろの環境の変化により
とうとう歌い手としての合唱の旅は、
終わるときがきたようである。
これまでも沢山の曲を歌う機会、
聴く機会に恵まれてきた。
(とくにタダタケこと多田武彦)
ご一緒した皆様には感謝の気持ちでいっぱいである。
聴く機会に恵まれてきた。
(とくにタダタケこと多田武彦)
ご一緒した皆様には感謝の気持ちでいっぱいである。
自分のひとつの旅のひと区切りとして、
歌って大好きになった個人的ランキングと
歌っていないけど大好きな個人的ランキングを
勝手に紹介して、自分なりのけじめとしたいと思う。
思い出は沢山ありますが、組曲単位としよう。
※個人的意見ですのでご了承ください。
※リンクはお世話になっているパナムジカ様になります。混声合唱の部(歌ったことがあるもの)
三善晃『地球へのバラード』
大学時代に歌った組曲で一番思い出に残った。
1曲目「私が歌う理由」の、曲中で転調する意味について
仲間と酒を飲みながら延々議論したことを思い出す。
團伊玖磨『筑後川』
初めて歌ったのは、
大学時代でOBOG合同ステージだった。
現役2年生だったこともあり、
前後左右に気を使ってへとへとだった(笑)
しかし、そんなことも今となっては
この組曲の壮大さの前では些末なこと。
「川の一生」という面だけでなく、
「川という英雄」という面で詩と曲を読み返してみると
見えてくる世界があるかもしれない。
特に2曲目「ダムにて」のテナーソロとソプラノソロが
合唱ではなくソロである理由が想像できると、
がぜん面白くなってくるかも。
その意味で、おすすめの本が下のリンクの「千の顔を持つ英雄」です。
う~む。團伊玖磨は、すごい。
三善晃『動物詩集』
高校時代に歌った組曲で一番印象に残った。
特に2曲目の「ひとこぶらくだのブルース」の
白石かずこの詩に胸を撃ち抜かれた。
・・・なんて詩だ。
(前略)ここには 砂漠も闘争も 友も 恋もなく日がな一日つづくのはながい ながい 時間と孤独ロンリーなひとこぶらくだがおりました(後略)
(『動物詩集』/サンリオ山梨シルクセンター/1970年)
・・・なんて曲だ。
当時の自分には
まったく容量の図れない
懐の大きな曲だった。
この曲に関しては
もう一つの詩の思い出が。
「ぼろぼろな駝鳥」
高村光太郎
何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股すぎるじゃないか。
頚があんまり長すぎるじゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろすぎるじゃないか。
腹がへるから堅パンも食うだろうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見ているじゃないか。
身も世もないように燃えているじゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまえているじゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいているじゃないか。
これはもう駝鳥じゃないじゃないか。
人間よ、
もうよせ、こんな事は。
(『猛獣篇』/歴程社/1962年)高校の教科書にのっていた
この高村光太郎の詩とあわせた二編。
「ひとこぶらくだのブルース」「ぼろぼろな駝鳥」は、
ずっと自分の中の大きな部分をしめているように
感じている。
混声合唱の部(歌ったことがないもの)
荻久保和明『季節へのまなざし』
高校、大学、社会人と縁があった混声合唱団で、
ことごとくタッチの差で演奏したばかりで
歌う機会に恵まれなかったのである。ぐすん。
「あー、ちょうどこの前の演奏会で歌ったばかりだわ~」。
不思議なめぐりあわせですね。
3曲目「みのる」の中間部。
低音から10小節にわたって
半音または全音でじわじわと上昇していく
ベースの旋律はまさに奇跡。
「♪ひとの心にひそかに実る/
ことばと愛と思い出とほろにがい香り/みえない実り」の
詩とハーモニーについて、
夜通しノンアル片手に語り合いたい。
初めて聴いてから30ウン年たった今でも笑。
男声合唱の部(歌ったことがあるもの)
多田武彦『雪明りの路』
何しろ、人生で初めて歌った男声合唱組曲なので
思い出もまた格別なもの。
『伊藤整の詩から』ではなく、
伊藤整の詩集『雪明りの路』を組曲名として
名付けたのは何故だろう?
という問いは、常に心のどこかにおいて向き合いたい。
また、1曲目の「春を待つ」の出だしの
ソレソシのG-dur10度のハモリ。
多田武彦の他の曲でも時々みかける。
(例;『尾崎喜八の詩から』の「春愁」、
『中原中也の詩から』の「月の光」)
ここぞというとき、物語が始まるとき、
人生の転換点などの印象を受ける。
もっというと、
多田武彦の師匠である清水脩『月光とピエロ』の
1曲目「月夜」の影響も受けているかもしれない。
多田武彦の曲で、
時折このハモリにでくわすけれども
その度にビクっとするのは私だけではないはず。
そんなわけで組曲の出だしから
いきなりガッともっていかれてしまう。
この曲集には
『尾崎喜八の詩から』『北斗の海』という名組曲も
収録されているのでそちらもおすすめ。
多田武彦『優しき歌』
多田武彦が題材とする詩人は様々であるが、
混声合唱畑では立原道造はよく歌う機会もあった。
そのためか、男声で立原道造?というイメージがあったのは
正直なところ。
しかし、大人になって男声で歌うとこれがまたしびれるしびれる。
詩人の世界観と作曲家の世界観それぞれに思いをはせながら、
思い切り歌うことの楽しさや難しさをしった組曲。
髙田 三郎『水のいのち』
古典中の古典だけど、やっぱりはずせない。
1曲目「雨」のなかで
「♪すべて許しあうものの上に/♪また許しあえぬものの上に」
というフレーズがあるが、
なぜ「許す」「許さない」ではなく
「許しあう」「許しあえぬ」なのか。
そのニュアンスと意味を考えるだけで
ご飯三杯はいける。
男声合唱の部(歌ったことがないもの)
多田武彦『わがふるき日のうた』
うそ~まじで~。
ほんとにめぐりあわせですね。
こんなに好きなのに。
多田武彦『雪と花火』
この曲集には多田武彦のデビュー作『柳河風俗詩』も
収録されているので、合わせ技で。
本組曲は3作目の作品。
特に終曲の「花火」は、
詩人北原白秋と作曲家多田武彦による
第一の旅の終わりを飾るに相応しい名曲。
多田武彦がユニゾンとオクターブユニゾンにこめた思いに
ずっと浸っていたい。
私たち一人ひとりの中には
守るべき約束があり
眠りにつく前に進むべき
道程がある
-ロバート・フロスト(詩人/1874-1963)
いやあ、
実に楽しかった。
実に愉快だった。
歌った曲の数だけ
たくさんの人生の喜怒哀楽を
味わうことができた気がする。
まだまだ歌っていない組曲は
星の数ほどあるから
じゅうぶんではないかもしれないけど
悔いはない。
これからは、
合唱好きの観客として
ホールの客席や自宅のステレオの前から
声援をおくる側になるけれども
合唱に対する思いはきっと変わらない。
それでいい。
それがいい。
さて、これで私のひとつの旅はひと区切りついた。
しかし、まだ旅(乗り鉄)と読書の旅は
まだまだ終わらない。
(完)
妻「えらくかっこよくまとめてるけど
このブログはどうするん?」
夫「別サイトでやってた書籍紹介でも
ゆるやかにやろうかと」
一声かけろよ。」
夫「ナゼワカリマシタカ?(スイミングフィッシュ)」
妻「ダイヤ改正したからって、
いそいそと時刻表買ってたろ」
夫「・・・ウム。」
大丈夫。
今年の2月に、
あをによしの国に旅行にいったから。
実に20年振りに夫婦水入らず旅行であったから。
何せ自作で旅行のしおりも作ったから。
まだまだボーナスタイムは持続しているはずだ。
倒れるときは前のめり。
明日からまた頑張ろう。
おわり。
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