さて、中原中也である。
組曲4曲めである。

この「雲雀」が収められている
詩集『在りし日の歌』の正式名称は
『在りし日の歌 亡き児文也の霊に捧ぐ』(創元社、1938年)
である。

この詩集の中で「雲雀」の一つ前に
収められているのが「春と赤ン坊」である。

「春と赤ン坊」
   中原中也

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲しろくも
――赤ン坊を畑に置いて
(『文学界』/1935年4月号)

そして、「雲雀」。

「雲雀」
   中原中也

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ん坊だ?
(『文学界』/1935年4月号)

中原中也の詩を味わっていると、
音に非情に敏感な感性を持ち合わせて
いたんだなあと感じる。

雲雀はこんな特徴がある。

日晴鳥、朝を象徴する鳥。春を象徴する鳥。
その啼き声の多彩さに魅了される。

一方、空で鳴っているのは電線。


電線は空を走る(何処かに去ってしまう)
雲雀は空を翔ける(声はすれども姿は見えず)
自転車は地を駆ける(何処かに去ってしまう)
赤ん坊は眠っている(ここにいる)


これらの詩を読んでいるだけで
すでにもうそれ自体が
音楽になっている気が
してしまう。

このときには、
1934年に生まれた長男への愛情や
小さな生の誕生の奇跡を存分に
味わっていただろうに。

この「雲雀」を『文学界』に発表した
翌年の1936年11月に長男文也を
病気で喪うことになってしまう。

そして、中原中也はこの詩集を世に出す
段取りを付け小林秀雄に託した後
東京を離れ、故郷山口に帰る決心をした。
そのことがこの詩集の後記に書かれている。

後記
 茲に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。
作つたのは、最も古いのでは大正十四年(1925年著者注)のもの、
最も新しいのでは昭和十二年(1937年著者注)のものがある。
(中略)
 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、
私の詩生活も既すでに二十三年を経た。
もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、
十五年間の詩生活である。
 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、
私の感じたこと考へたことは尠くない。
今その概略を述べてみようかと、
一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。
私は何にも、だから語らうとは思はない。
(中略)
 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、
東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。
別に新しい計画があるのでもないが、
いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。
 扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
(『在りしの歌 亡き児文也の霊に捧ぐ』/創元社/1938年)

これが
1937年9月のこと。
1937年10月に結核性脳膜炎を発病、入院。
     同月22日に永眠。
1947年4月『在りし日の歌 亡き児文也の霊に捧ぐ』(創元社)が発刊。

なんという過酷な人生だったことだろう。

この詩集の中に展開される
この中原中也という詩人の生き様が
多田武彦の曲の端々から
立ち上ってきて、
私の胸を打つ。

山口県山口市にある
中原中也についてもっと
深く知ることができるかもしれない。
(訪れる前に一応蔵書確認を。念の為。)


いつか自分も時間を捻出して
訪れてみたい。