中原中也、激動の人生。
1907年
山口県に生まれる。
1923年
女優の長谷川泰子と知り合う。
1924年
長谷川泰子と同棲。
1925年
3月長谷川泰子とともに上京。
3月長谷川泰子とともに上京。
4月小林秀雄と知り合う。
11月長谷川泰子、小林秀雄の許に去る。
1937年
結核性脳膜炎を発症し、永眠。
結核性脳膜炎を発症し、永眠。
中原中也記念館HPより
さて、中原中也である。
組曲3曲めである。
「間奏曲」
中原中也
いとけない顏のうへに、
降りはじめの雨が、ぽたつと落ちた……
百合の少女の眼瞼の縁に、
露の玉が一つ、あらはれた……
春の祭の街の上に空から石が降つて來た
人がみんなとび退いた!
いとけない顏の上に、
雨が一つ、落ちた……
(『中原中也全集』第1巻 未刊詩篇1923年―1928年/
角川書店/1967年)
中原中也の詩を味わう際には、
長谷川泰子の存在を抜きには
語れないと思う。
この詩も表現は平易だが、
読み方にとっては様々な
イメージがあるのではないか。
いとけない顏のうへに、
降りはじめの雨が、ぽたつと落ちた……
いとけないとは、
幼い、若い、無邪気などという意味が
国語辞書には載っている。
幼い、若い、無邪気などという意味が
国語辞書には載っている。
この人物は、誰か。
長谷川泰子か、
詩の2連めの百合の少女か、
詩の2連めの百合の少女か、
はたまた中原中也自身か。
個人的には、
この時期の心象を表した
中原中也ではないかと感じる。
読み方によっては、
いとけない顏のうへに、
降りはじめの雨が、ぽたつと落ちた……
====中也の想像=========
百合の少女の眼瞼の縁に、
露の玉が一つ、あらはれた……
春の祭の街の上に空から石が降つて來た
人がみんなとび退いた!
==================
いとけない顏の上に、
雨が一つ、落ちた……
と、中原中也が
雨の降り始めた刹那に
見た幻かもしれない。
雨の降り始めた刹那に
見た幻かもしれない。
色々あった、と。
同棲した彼女が親しい人の許に
走ってしまった。
普通の人々からしたら
とび退くくらいの衝撃的な事件だと。
この詩は『中原中也全集』
に収められた未刊詩篇であるが、
まだ未完成のものであったかもしれない。
そして自分の気持の整理もまだついて
いなかったのではないか、と想像される。
この数年後、
この詩の進化形かと思われるものが
発表されている。
発表されている。
しかもソネット形式と
なっているのである。
「小林秀雄に」
中原中也
神よ、私は俗人の奸策ともない奸策が
いかに細き糸目もて編みなされるかを知つてをります。
神よ、しかしそれがよく編みなされてゐればゐる程、
破れる時には却て速かに乱離することを知つてをります。
神よ、私は人の世の事象が
いかに微細に織られるかを心理的にも知つてをります。
しかし私はそれらのことを、
一も知らないかの如く生きてをります。
私は此所に立つてをります!……
私はもはや歌はうとも叫ばうとも
描かうとも説明しようとも致しません!
しかし、噫! やがてお恵みが下ります時には、
やさしくうつくしい夜の歌と
櫂歌かいうたとをうたはうと思つてをります……
(『白痴群 第五號』/東省堂/1930年1月)
このあたり、
中原中也と小林秀雄と
長谷川泰子の三角関係の真相は
筆者のような凡人には
うかがい知ることはできない。
多田武彦の「間奏曲」は、
ゆったりとした曲想の中に
様々な想像を見出す余地に溢れており
とても味わい深い佳曲である。
新型コロナも一段落したことだし
時間を捻出して訪れてみたい。
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