さて、中原中也である。
組曲2曲めである。

「汚れつちまつた悲しみに……」
   中原中也

汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖氣づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
(『山羊の歌』/文圃堂/1934年)

「哀しみ」ではなくなぜ「悲しみ」なのかについて
大変参考になるHPがこちら。


さて、中原中也の詩を読んでいると
「雪」をモチーフとしたものが
多いことにも気づく。
『山羊の歌』より
「雪の宵」
「汚れつちまつた悲しみに」
『在りし日の歌』より
「冬の明け方」
「雪の賦」

などなど。
この中で印象的な2篇が
こちら。

「生ひ立ちの歌」
   中原中也
   
   Ⅰ

    幼年時
私の上に降る雪は
真綿まわたのやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙みぞれのやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰あられのやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹ひようであるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪たきぎの燃える音もして
凍るみ空の黝くろむ頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました
(『山羊の歌』/文圃堂/1934年)

「雪の賦」
   中原中也

雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾おほたかげんごの頃にも降つた……

幾多あまた々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。

ロシアの田舎の別荘の、
矢来の彼方かなたに見る雪は、
うんざりする程ほど永遠で、

雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……

雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
(『在りし日の歌』/創元社/1938年)

「汚れつちまつた悲しみに」を含めた
これらの3つの詩を読んでみると、
中原中也は、
「雪」を通して「世間」や「人生」の
喜怒哀楽をかみしめているように思える。

14歳で弟亜郎を病気で失い、
18歳で恋人が友人の元に去り、
29歳で長男文也を病気で失う。


思えば、中原中也は己の魂のために
雪にまつわる数々の詩をうみ出してきたのかも
しれない。
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作家隆慶一郎の作品を通して知った
大好きな中原中也の詩を最後に紹介したい。
特に最後の2行は筆者の座右の銘の一つ
となっている。

「寒い夜の自我像」
   中原中也

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志明かなれば
冬の夜を、われは嘆かず、
人々の憔燥のみの悲しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を、
我が瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉めくままに静もりを保ち、
聊か儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫める、
寒月の下をゆきながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!……
(後略)

(『白痴群」』1929年1月)

この中原中也という詩人の生き様が
多田武彦の曲の端々から
立ち上ってきて、
私の胸を打つ。

山口県山口市にある
中原中也についてもっと
深く知ることができるかもしれない。
(訪れる前に一応蔵書確認を。念の為。)

新型コロナも一段落したことだし
時間を捻出して訪れてみたい。