今回は「春の寺」のはなしの第2弾。
第一弾及び参考記事はこちら。
室生犀星の生い立ちについては、
室生犀星記念館のHPに詳しく紹介されている。
室生犀星記念館のHPはこちら
このHPからは室生犀星には
こんなイメージを抱くことができる。
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こんなイメージを抱くことができる。
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私生児として生まれ、
生後まもなく、生家近くの雨宝院住職だった
室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ
私生児として育てられた。
無念。鬱屈。
生まれの父母には会えず。
私生児として肩身の狭い思いをし。
鬱屈とした感情。
故郷金沢への愛憎。
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それらを自らの創作活動への
エネルギーにしたのかもしれない。
1918年に犀星は
詩集「叙情小曲集」を発表する。
詩集「叙情小曲集」を発表する。
その中で
故郷金沢で育った風景を
よんでいるのがこちら。
故郷金沢で育った風景を
よんでいるのがこちら。
「犀川」
室生犀星
うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
いまもその川ながれ
美しき微風ととも
蒼き波たたへたり
(「叙情小曲集」1918年/感情詩社)
上京し詩作が北原白秋に認められ、
終生のライバルにして親友の
萩原朔太郎と親交を結んだ後の作なので
多分に概念的な懐かしき故郷の思い出
という感じを受ける。
こののち、
1919年には
1919年には
自伝的小説「幼年時代」や
「性に目覚める頃」
「性に目覚める頃」
を発表したことで、
犀星の心境に何かしらの変化が
起きたのかもしれない。
そして、1923年。
「春の寺」
室生犀星
うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹に
すゞめら交り
かんかんと鐘鳴りて
すずろなり。
かんかんと鐘鳴りて
さかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして
遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。
(『青き魚を釣る人』アルス/1923年)
概念としての故郷の風景を描いた
「犀川」よりも
眼の前の風景を描いたという
印象が強い「春の寺」。
印象が強い「春の寺」。
生後1週間で寺に引き取られて
しまったため、
見ることのかなわなかった
ちちははのなすこと
このときの犀星の状況は。
前年(1922年)の6月に
長男が早逝。
亡児を追憶する詩集「忘春詩集」が
出版されたのが12月。
その中の一遍がこちら。
「ちちはは」
室生犀星
われとわが子を愛めづるとき
老いたる母をおもひいでて
その心に手をふれしここちするなり、
誰か人の世の父たることを否むものぞ
げに かれら われらのごとく
そだちがたきものを育てしごとく
われもこの弱き子をそだてん。
(『忘春詩集』/京文社/1922年)
すべてをひっくるめて
みつめる犀星のまなざし。
この『叙情小曲集』が発表された
わずか5ヶ月後に関東大震災に遭遇し、
愛憎愛憎相半ばする故郷金沢に
家族を連れて帰郷することになる。
なんという苛烈な人生だろうか。
なんという苛烈な人生だろうか。
多田武彦の作曲した「春の寺」は
それらすべての感情を詰め込んだ詩を
慈しむようなメロディーとハーモニーで
表現している。
大切に歌いたい一曲である。おわり。
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