出張や旅で日本各地に行くとき、
見知らぬ土地で
図書館に行くのが好きである。
図書館に行くのが好きである。
どの図書館に行っても、
まず目指すのは
まず目指すのは
いわゆる日本十進分類法の
911の棚「日本文学の詩歌」である。
911の棚「日本文学の詩歌」である。
日本十進分類法(NDC)に
ついてはこちら(日本図書協会のHP)。
ついてはこちら(日本図書協会のHP)。
どこの図書館でも必ずあるこの棚で、
毎回新たな本との出会いが
毎回新たな本との出会いが
ささやかな楽しみとなっている。
さて、人生の荒波のバタフライに
疲れた時は
やはり、中原中也である。
以前拙ブログでもとりあげた
「また来ん春」である。
中原中也『在りし日の歌』の中の「また来ん春」のこと
中原中也『在りし日の歌』の中の「また来ん春」のこと
「また来ん春」
中原中也
また來ん春……
また來ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が來たつて何になろ
あの子が返つて來るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫といひ
鳥を見せても猫だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
(『在りし日の歌』/創元社/1938年)
いわずと知れた名曲だが、
地元の図書館で
ふと手に取った
佐々木幹郎という詩人による
一冊の本で
佐々木幹郎という詩人による
一冊の本で
また世界がひろがった。
という本である。
この中で、「また來ん春」が
取り上げられている。
長男文也を1936年に亡くした中也だが、
その中也にフランス語を習っていた
音楽評論家の吉田秀和のエピソードが
紹介されている。
1931年頃中也に上野動物園に
行こうと誘われたとのこと。
中也は上野動物園で
長い間じっと白熊を眺めて
いたという。
まるで、詩の中の
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
のように。
眺めていたのは
文也だったのか。
眺めていたのは
中也だったのか。
本中にあった
「過ぎし日の歌」ではなく
「在りし日の歌」になった
中也の視点など。
そんな思いで
この詩を
読み返してみると、
いろんなまなざしが
見えてくるかもしれない。
おわり
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