男声合唱組曲『父のいる庭』の中の
2曲目「太郎」及び3曲目「早春」については、
以前拙ブログで取り上げた。
組曲の3曲目「早春」は、
2曲目では男の子と思っていた「太郎」が
生れたら女の子だったという時間の流れでの曲。
「早春」
津村信夫
淺い春が
好きだつた──
死んだ父の
口癖の
そんな季節の
訪れが
私に
近頃では
早く來る
ひと月ばかり
早く來る
藪蔭から
椿の蕾が
さし覗く
私の膝に
女の赤兒
爐の火が
とろとろ燃えてゐる
山には
雪がまだ消えない
椿を剪つて
花瓶にさす
生暖かな――
あゝこれが「生」といふものか
ふつと
私の頬に觸れる
夕べの庭に
ゆふ煙
私の性の
拙なさが
今日も
しきりと
思はれる
(『父のいる庭』/臼井書房/1942年)
父信夫、母昌子、娘初枝という
家族に訪れた
生の素晴らしさを
噛みしめることのできる
名曲である。
二人が結婚を許される前の話になるが、
信夫と昌子は、
軽井沢にあった室生犀星の離れを
使って逢引をしていたという。
東京から汽車に乗ってくる信夫。
長野市から汽車に乗ってくる昌子。
ささやかな逢引ののち、
夕刻には軽井沢の駅で
西と東に別れて汽車に乗って
家路についたという。
このブログの表紙の写真は、
軽井沢のあたりから
浅間山を望んだ写真を
筆者が撮影したものである。
二人もこの『浅間の別れ』を
何度となく繰り返したのだろうか。
そんな「旅」が育んだ
二人の愛情にフォーカスした
信夫の詩がこちら。
「はるかなものに」
津村信夫
白い繭を破つて
生れ出た蛾のやうに
俺には
子供の成育が
実に不思議に思はれる
美しいもの――
とも考へる
俺は林の中に居を卜した
俺が老いるのは
子供が育つことだ
それにはなんの不思議もない
風が来て
芙蓉の花が揺れる
俺は旅で少女と識つた
古いことだ 昔のはなしだ
少女は俺の妻になつた
その妻が
今 柱のそばに立つてゐる
子を抱いて 少し口もとで笑つて
風が吹く
どのあたりから?
旅の空を はるかなものを
俺はもう忘れてしまつたのか
(「さらば夏の光よ」/八代書店/1948年)
男声合唱組曲『父のいる庭』には
収められていないが、
「早春」とあわせて味わいたい詩である。
おわり。
★参考文献
「我が愛する詩人の伝記」室生犀星/中公文庫/1974年
「詩を読む人のために」三好達治/岩波文庫/1991年
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