演奏会も無事終了し、
ほっとひと息。

昨年9月から住み始めた
新しい街で、
忘れていたわ、本屋巡りの旅。
それも古書店がイイ。

妻とぶらぶら歩き中に、
突然、街中のメインストリートに
古き良き古書店が出現。

夫「なにかあるぞ。」
妻「見て、壁一面に北原白秋全集があるぞ。」
夫「おお、尾崎喜八詩文集があるじゃないか。」

さっそく「空と樹木」「雲と草原」の2冊を購入。
近代詩のコーナーで
ぎゃーすぎゃーす騒いでいる夫婦に
明らかに不審げな視線をなげかける店主。

夫「北原白秋は3巻づつくらい買って帰る?」
妻「・・・両手で持って帰れるだけに
  しとけよ。」

泣く泣く力ない色男は白秋をあきらめて。
―ほろほろとほろほろと
 頼りない眼が泣かるる・・・

過去に男声合唱組曲『尾崎喜八の詩から』を
歌った。
涙が出るほど心に染み入る曲であった。
その中の1曲目「冬野」はドラマチックな名曲。

拙ブログでも取り上げている。

歌詞(詩)については、
下記リンクを参考にしてください。
非常に参考になります。


さて、「雲と草原」の巻を読んでいくと
改めて尾崎喜八の教養の高さや
自然、人々への暮らしへの観察眼や情熱が
ひしひしと伝わってくる。

麦刈の月(1945年)の章では、
「冬野」でよまれた世界がえがかれている。

「(前略)そしてもう聴いている
 取り入れの野が祭りのような、
 燃えるような正午が翡翠いろの
 海のような六月を・・・」

という一節があるが、
武蔵野から下総に逃れてきて
そこでの来るべき収穫の時期を
楽しみにしている、と思って歌っていたが。

この文章を読んでいくと、
武蔵野の収穫や、なつかしい人々のことも
思い出され、はげしい望郷の念にうたれたのだ、
というダブルイメージだったのか、
ということがわかった。

多田武彦の曲は、
そんなぼうっと感傷にひたっている尾崎喜八を
現実の厳しい暮らしに引き戻すかのような
リフレインが飛び込んでくる。
ううむ、腹にすとんと何かが落ちて、うむむ。

また、文章の終盤で、8月のあの日を迎えて
新しい人生を送る決意が述べられている。
それを、尾崎喜八は残りの人生を一歩づつ、
味わいながら辿る旅だと述べている。
それを
「私の正午は既に過ぎて」
「影はますます長くなる」
「あたかもいよいよ大地に
 近づいていく者のように」
と表現するあたりが、天文気象に造詣の深い
尾崎喜八らしいなあ、としみじみ思った。

古書店だけに全巻はそろっていなかったのだが
いつか、残りの巻も入手したい。
そして、みすずかる信濃の国の高原などを散策
してみたい。

妻「新宿発のあずさ★号の切符買うときは
  一声かけろよ。」
夫「なぜそれを!」
妻「ばればれじゃあ!
  なんだそのぼろぼろの時刻表は。
  読み込みすぎじゃあ!」
夫「・・・ウム。」

おわり。


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