「海は、お天気の日には」
   中原中也

海は、お天気の日には 
海は、お天気の日には、
綺麗だ。
海は、お天気の日には、
金や銀だ。

それなのに、雨の降る日は、
海は、怖い。
海は、雨の降る日は、
呑まれるやうに、怖い。

ああ私の心にも雨の日と、お天気の日と、
その両方があるのです。

その交代のはげしさに、
心は休まる暇もなく
(未刊詩編)

先日の
タダタケをうたう会の演奏会での
タダタケ・ア・ラカルトステージで
演奏する機会に恵まれた曲である。

中原中也の全集などには
掲載されているもので
ある詩の完成形に至る前の
過程のものとして
全集では( )書きで
掲載されているとのこと。

手持ちの文庫には
見当たらない(涙)
いつもながらに
多田武彦の詩に対する
視野の広さと
選球眼の確かさには
驚かされるばかりである。

もう一つ同じようなモチーフで
書かれているものがこちら。

「お天気の日の海の沖では」
   中原中也

お天気の日の海の沖では
子供が大勢遊んでゐるやうです
お天気の日の海をみてると
女が恋しくなって来ます

女が恋しくなると
もう浜辺には立ってはゐられません
女が恋しくなると人は日陰に帰って来ます
日陰に帰って来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

それなのに人は大部分日陰に暮します
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけれど、
死ぬ時思ひ出すことは、
多分はお天気の日の海のことです
(未刊詩編)

これらの詩の試みが、
文庫などにも載っている有名な詩に
昇華されたと想像すると、面白い。

「思ひで」
   中原中也

お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか

金や銀の沖の波に
ひかれひかれて、岬の端に
やってきたけれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光った。
      (以下略)
(『在りし日の歌』/創元社/1938年)

中原中也が生涯をかけて打ち込んだ
「ランボオ詩集」の翻訳の影響などを
見ることもできるが
「遠景(Marine)」
それは、歌い手の解釈の
自由でよいと思う。
なんといっても、
美しい曲と詩であるのだから。

おわり。


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