立原道造『優しき歌』の曲集で
取り上げるいよいよ最後の1曲である。

「落葉林で」
   立原道造
 
あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶へて行つた

私は 身を凭せている
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる

私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに

雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに
 
私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらう か
(『優しき歌』角川書店/1947年)

曲集の中では2曲目。
1曲目の「爽やかな五月に」では
堀口大學「月夜」や
三好達治「涙」や
大手拓次「ひびきの中に住む薔薇よ」
などの有名な曲と詩が
どうしても連想される。

「月の光」「こぼれる涙」
「ひらく薔薇」など。

まさに作家中村真一郎が
評した通り
本歌取りの名人」にして
それを
ソネット形式に
まとめあげる技巧家」である
といえる詩であった。

この立原道造の代表作
ともいれる「優しき歌」
という詩集は
序+10詩で
成り立っているが
10詩には
まるで組曲のように
ギリシャ数字が
割り振られている。

多田武彦の組曲では
詩集の順番通り
Ⅱ「落葉林で」
となっている。

信濃追分の
落葉松林の中での
すべてが
死に絶えていく風景。
雲、鳥、花
そして私とおまへ
という私ら。

しかし、
最後の一行は、
死んだわけでないかもな
という問いかけにも読める。

私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらう か

答えを出す前に、
作曲されていないが
同じ詩集の7(Ⅶ)詩
合わせて読むと、
感じがわかるかもしれない。

「また昼に」
   立原道造

僕はもう はるかな青空やながれさる浮雲のことを
うたはないだらう……
昼の 白い光のなかで
おまへは 僕のかたはらに立つてゐる

花でなく 小鳥でなく
かぎりない おまへの愛を
信じたなら それでよい
僕は おまへを 見つめるばかりだ

いつまでも さうして ほほゑんでゐるがいい
老いた旅人や 夜 はるかな昔を どうして
うたふことがあらう おまへのために

さへぎるものもない 光のなかで
おまへは 僕は 生きてゐる
ここがすべてだ! ……僕らのせまい身のまはりに
(『優しき歌』角川書店/1947年)

鳥や花や雲に
対してひとつの
「答え」「決意」
出していると
よめないだろうか。

多田武彦の曲は
おのれの
問いかけが
落葉林の中で
独りうたいする
こだまのように
繰り返される
印象的な佳曲。

<参考>
愛しているのに
分かり合えない
若者の愛を描いた描写が
読む人の心を離さない物語。
最後の分かり合う望みをかけて
信濃追分でお互いの気持ちを
分かろうとする場面が印象的。
毎度お世話になります
https://calil.jp/book/410111501X
で検索できます。

(新潮社/1954年)

ちなみに
我が家にある文庫本は
5代目である。
ぼろぼろになるまで
何度も何度も読んでは
買いなおしたので。
初読は高校生。
あの頃自分は若かった。

妻「随分久しぶりの
  更新じゃないか。」
父「いやあ
  調査と咀嚼には時間が
  かかってさあ。」
妻「最近さぼってたようだからな。
  ケーブルTVばかり観てて。」
父「なぜそれを!!」
娘「J:C●Mのオンデマンドは
  履歴が残ってるからね。
  何この
  『まいっち●ぐマ●子先生』って。」
父「いやあ、実写版なんてレアでさあ。
  偶然見つけちゃ」
妻「バキッ(番組表を叩き折る音)
  ・・・思春期の娘がいる
  という状況をよーく考えろよ。
父「・・・ウム。いえ、ハイ(恥)。」

おわり。


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