ふと手に取った
詩専門の雑誌がある。

『現代詩手帖』
2014年10月号。

偶然目に留まったのが
特集「立原道造-生誕百年」
である。

最近、多田武彦&立原道造に
縁があるなあと。

その中で特に印象に残ったのが
この「立原道造の詩と空間」
小池昌代氏
文章である。

要点は次の通り。

●彼は建築家としての才能を持ち
 その美学が詩に表れている。
●言葉はそれ自体の意味というよりも
 表象であることに特徴がある。
●そういう意味では同時代の
 中原中也とは対照的。
●よく中也にからかわれた。とのこと。
●ソネットの中にちりばめられた
 世界は「過去のこと」が多い。
●過去のことを表現する日本の伝統芸能
 である能をイメージさせる。
●言葉よりも空間が大きい。
 宮沢賢治は宇宙的空間だとしたら
 立原道造は人間サイズ。
 正に建築的空間
●1937年6月6日。
 神保光太郎への手紙に
 能を鑑賞して感激したと
 書いていたという。
●演目は「隅田川」梅若舞台で。
 何もないところから物語が生まれ、
 しづかな美しさの中に消えていく。
 後には何も残らない。
 との感想を残した。
●立原道造の詩の中では
 言葉自体はあまり意味を持たない。
 それを読む人の心の中で
 世界が再構築される。
●そういう意味では、彼の詩は
 建築における「図面」
 芝居における「脚本」
 音楽における「楽譜」
 と同じ世界のものであるといえまいか。

「能」「隅田川」について語る能力は
筆者にはないので、

などをご参照ください。

それはさておき
小池昌代氏の文章は
大変示唆に富む内容でした。

多田武彦が取り上げている
立原道造の詩は
有名なものばかり。
使用されている言葉も
平易なものばかり。
しかし
なかなか詩と音楽とが
シンクロせず
風の中で叫んでいるばかりの
自分がもどかしかった。

追いかけても
追いかけても
捕まえられない
影法師のようだと。

しかしこの文章を読んで
詩が「楽譜」だと
腑に落ちた。
 
あとはそれを
「演奏」することで
若くして夭折した
誰も観たことがない 
立原道造の
成熟した人生の世界
見えてくるかもしれない。

それが私のような
馬齢を重ねたものでも
多田武彦の
立原道造「優しき歌」を
歌う醍醐味につながるかも
しれない。

北方民族大移動を控えて
忙しい筆者だが
「優しき歌」、
大切に歌いたい。

妻「何でもいいけど、
  はやく荷造りしろよ。」
父「・・・ウム。」
 
おわり。


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