冬も本格的になってきた
冬が似合う詩人というか
冬に味わいたい詩人といえば
やはり中原中也か。

人生の曲り角、
お肌の曲がり角には
叫びだしたくなる夜がある
ノオ、ノオ、ノオ・・・

と少し福永武彦のように
なってしまったが、
私の人生に座る椅子なんて
ないのだ。
中原中也の詩を読んで
本当にそう思う。

「港市の秋」
   中原中也

石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛の角でもあるのか

町では人々煙管の掃除。
甍は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。

『今度生れたら……』
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々がうたふ。

  港の市の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。
(『山羊の歌』文圃堂/1934年)

この詩が収められている文庫を
読み返してみたら、
あとがきに
あの秋元康さんが
中学生時代の初恋の話を寄せていた。

その初恋の相手が読んでいたのが
中原中也だったとのこと。
そして
自分も読みだしたらすっかり
はまってしまったとのこと。

わかります。
好きになった人の好きな本を
読んで、その人の目線で世界を
観れたらなあって、
誰しも思うもの。

印象的だったのは、
秋元さんが図書室でいつも
その女の子と何となしに
会話していて、
その子が去っていくときの
スカートがひるがえっていく
風景が忘れられなかった
というくだり。

「僕はその着地点を
  探し続けているのかも
 しれない」

という想い、
着地点、着地点。
おお、おお。

そういうわけで
多田武彦『冬の日の記憶』。
この曲集も、
『在りし日の歌』と同じで
テナーの音色で印象ががらっと
変わってしまう難曲。

その第1曲。

「冬の明け方」
   中原中也

殘んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。

烏が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
   私の心は悲しい……

やがて薄日が射し
青空が開く。
上の上の空で
ジュピター神の砲が鳴る。
――四方の山が沈み、

農家の庭が欠伸をし、
道は空へと挨拶する。
   私の心は悲しい……
『在りし日の歌』
(創元社/1938年)

ただせつなくて。
ただかなしくて。
でもしっとりと。
でもさりげなく。
歌ってみイたい。

眠い朝には最適な歌。
一時期朝の目覚まし歌に
設定していたら
家族に起きれないからやめてと、
いわれている。
(現在は「また来ん春」に変更。)

妻「どっちにしてもタダタケかぁっ!」
父「そんな本宮ひ●志風に
  言ってもダメ。好きなの。」
娘「なんか、起きれないよ。」

それはさておき、、
筆者のプレーヤーには
『中原中也の詩から』
『冬の日の記憶』
『在りし日の歌』
と3組曲連続で入っているのである。
聴き終えるとぐったり(笑)。
街中では要注意。
涙ぐんでしまうから。

冬本番ですが、
花粉症の季節になって
涙が目立たなくなるまでの
我慢ですな。

がんばれ、
みんな
がんばれ!

立ち上がれ
全国の
タダタケ愛好家よ!

2人「立ち上がる前に
   はよ起きんかい。
   寝床から。」
父 「・・・おはようございます。」

おわり。

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