「閑寂(かんじゃく)」
中原中也
なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
それは日曜日の渡り廊下、
――みんなは野原へ行つちやつた。
板は冷たい光澤をもち、
小鳥は庭で啼いてゐる。
締めの足りない水道の、
蛇口の滴は、つと光り!
土は薔薇色、空には雲雀
空はきれいな四月です。
なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
『在りし日の歌』創元社/1938年4月)
※中原中也は1937年10月に永眠。
閑寂って難しい言葉。
辞書には
「もの静かなさま。
静かで趣のあるさま。」
「芭蕉風俳諧の
美的理念の一つ。さび。」
などと書かれている。
しかし、
多田武彦作曲の
『在りし日の歌』は、
難曲ぞろいだ。
特にテナー系は、
この雰囲気を出すのが
難しいと思われる。
詩の雰囲気と世界を
見事に表現している
組曲3番目の曲。
いつかはチャレンジしてみたい曲。
最近、自身を取り巻く環境が
激変し。
ふと立ち止まり
足元を確認したくなる
そんな日々が
続くと。
不思議と
中原中也の詩と
多田武彦の曲を
じっくりと味わいたくなる。
叫びだしたくなる気持ち。
真っ暗な中で
何かをつかみ取りたくなる気持ち。
声が枯れるほど
中原中也を読みたい。
多田武彦を歌いたい。
何気ない
中也の言葉は
読む人の心を
打ち抜く。
「港市の秋」
中原中也
石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛の角でもあるのか
町では人々煙管の掃除。
甍は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。
『今度生れたら……』
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々がうたふ。
港の市の秋の日は、
大人しい発狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。
(『山羊の歌』文圃堂/1934年)
「私はその日人生に、
椅子を失くした。」
何という語感。
電車の中で読んでいて
眩暈がしてくらくらしたけど
誰も席は譲ってくれなかったよ。
酒飲みにはこちら。
「酒場にて」
中原中也
今晩あゝして
元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。
いまといふ今は尠くも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代ではないのです。
諸君は僕を、
「ほがらか」でないといふ。
しかし、そんな定規みたいな
「ほがらか」なんぞはおやめなさい。
ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?
されば今晩かなしげに、
かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。
さて、輝き出でるや、
諸君は云ひます、
「あれでああなのかねえ、
不思議みたいなもんだねえ」。
が、冗談ぢやない、
僕は僕が輝けるやうに
生きてゐた。
(『未刊詩篇』1936年10月発表)
~すべき。
~なんだから。
~らしく。
って、
がんじがらめになっても
現代に生きる大人なら
仕方ない。
しかし
自分の心は自分のもの。
さあ、
今日は日曜日、
仲間と
歌を
歌いにいくか。
おわり。
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