「鶯(うぐいす)」
         三好達治

「籠の中にも季節は移る
 私は歌ふ 私は歌ふ 
   私は憐れな楚囚(そしう)
 この虜はれが
 私の歌をこんなにも美しいものにする
 私は歌ふ 私は歌ふ 
   やがて私の心を費ひ果して
 私の歌も終るだらう
 私は眼を瞑る 翼をたたんで 
    脚を踏ん張つて
 この身の果を思ひながら
 それは不幸だらうか? 
    私は私の歌に聽き耽る」
(『閒花集(かんくわしふ)』四季社/1934年)

この詩集の冒頭には
この小詩集を
  梶井基次郎君の墓前に捧ぐ
」とある。
2年前の1932年3月24日に
莫逆の友を喪った喪失感は
いかばかりか。

三好達治は後年に発表した
『故郷の花』の序にかえて
紀貫之の「ひとはいさ・・・」が紹介されて
いることからも、古今和歌集に造詣が深く
自分は昭和の「つらゆき」だという自負が
あったのではないか。

それを踏まえると、
この詩に出てくる「楚囚(そしう)」は、
1889年の北村透谷の
楚囚之詩」(政治犯で獄中にあった際に
自らの孤独な思いを書き連ねた詩)
へのオマージュではないだろうか。
同じような孤独な境遇でも、
歌を詩を読まねばならぬ、

そしてそれは、
みんな自明の理だ、という
古今和歌集序文(紀貫之)
につながる。

「やまと歌は、(中略)
花に鳴く鶯、
水にすむかはづの声を聞けば、
生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。」

鶯は「歌を歌わねばらぬさだめの鳥。」
達治は「詩を読まねばならぬ定めの詩人。」

という風にイメージが重ならないだろうか。
そう考えると
この詩全体に「 」がかかっている意味が
わかってくる気がする。

多田武彦の曲は、テナーソロの切々とした
メロディーが心に響く名曲。
じっくりと味わいたい。

おわり。

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