譜面は買えても
なかなか演奏を耳にする機会が
ない多田武彦の組曲がある。
『追憶の窓』である。
1曲目「村」。
2曲目「村」。

妻「どっちよ。」

打ち間違いではないのである。
三好達治詩集でも
「村」「春」「村」と
連続して掲載されている。

今回はその2つめ
(組曲でも2曲目)
の「村」の話。

「村」
  三好達治

恐怖に澄んだ、
その眼をぱつちりと見ひらいたまま、
もう鹿は死んでゐた。
無口な、理窟ぽい靑年のやうな顏をして、
木挽小屋の軒で、
夕暮の糠雨に霑れてゐた。
(その鹿を犬が嚙み殺したのだ。)
藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、
大腿骨のあたりの傷が、
椿の花よりも紅い。
ステッキのやうな脚をのばして、
尻のあたりのぽつと白い毛が
水を含むで、はぢらつてゐた。

どこからか、
葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
三椏(みつまた)の花が咲き、
小屋の水車が大きく廻つてゐた。
(『測量船』/第一書房/1930年)

1927年7月から10月まで、達治は
伊豆湯ヶ島に転地療養中の
梶井基次郎を見舞っていたという。
この辺りは、野生の鹿がたくさん生息
しているところで有名だったとのこと。
死の影が迫りくる
(5年後にこの莫逆の友を喪う)
現実に接して、
産み出された詩かもしれない。

鹿が死んでしまった情景を
じーっと見つめている達治の視点による
「静」そして「死」の前半。

ふと、葱や三椏(みつまた)の存在が
が入ってきて、視点が動き出す
「動」そして「生」の後半。

ミツマタの花言葉は、
全部で4種類あるとのこと。
「肉親の絆」「永遠の愛」「壮健」「強靱」

命が燃え尽きてしまった存在に対して、
力強く生きていてほしい、という願い。

葱の別名は「ひともじ」と、
野菜図鑑に書いてある。
これは葱の形が
「人」という字に似ているといい、
葱(き)の一文字だから、
という説もあるとのこと。
季語は冬。
三椏の花の季語は3月初めから4月初め。

季節は流れ、動いている。
水車は動いている。

「甃のうへ」  
       三好達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに
語らひあゆみ
うららかの跫音
空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなき
み寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりに
うるほひ
廂々に
風鐸のすがた
しづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする
甃のうへ
(1926年春の作)

立原道造風に言うならば、
流れて行くのだ。
流れていくのだ。

風は止まらない。
止まらないでくれ。

達治の「村」「「甃のうへ」に
共通する静と動の世界。
そして一言も言及していないが
「風」がそこにあるということ。

「みえないことでみえてくる世界」

いやあ、またタダタケが
歌いたくなってきた。

三好達治三部作
「海に寄せる歌」
 「わがふるき日のうた」
「追憶の窓」
のプログラムの演奏会、
いつかやってみたいなぁ。

妻「第3集1冊に全部入っているしな。」
父「うむ。リーズナブル。」


おわり。

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