「汽車の歌」
   立原道造

上り列車は三日月ぐらゐの
小さな明りを一列につないで

あれはくたびれた足どりを
一しやう懸命だつた

そのあと暗くなつてから
下りはキラキラと走つてしまつた

上りの息は僕たちをすこしだけ
かなしく心配にした あの小刻みな喘ぎ

(「立原道造全集第二巻
 散歩詩集」角川書店/1967年)

『八月の歌』という
5つの四行詩の連作の3番目の詩。

信越本線の信濃追分を舞台にした詩。
立原道造がここに鉄道で来るには
必ず通らなければ
ならなかった難所がある。

日本鉄道史でも屈指の難所 
碓氷峠(うすいとうげ)」。

最大66.7‰(パーミル)の急勾配で
展開される信じられない光景。

平成の世でも
電車特急「あさま」に連結された
3重連の機関車を
見るたびに、
この峠を越える壮絶なドラマに
涙したものである。
立原道造が散歩詩集を刊行したのは
1933年12月。
前年の夏には
三好達治の「南窗集」に熱中し
四行詩に取り組んでいた頃の
詩だろう。
もうこの区間は1912年に
電化されていたが
難所には変わりはない。

鉄道にかける思い。
美術学校に進学する夢を
母の反対であきらめるなど
激動の青春の風が
吹き荒れる中
建築学科の学生たる
立原道造が
信じられたもののひとつが
鉄道ではなかったか。
碓氷峠という難所を超えて
たどり着いた軽井沢の地で
何を思ったか。
初めて立原道造が
軽井沢、信濃追分を
訪れたのは1934年7月のこと。
以後、室生犀星との出会い、
萩原朔太郎の訪問へと
人生の旅路の線路は
つながっていく。

そんな「あさま」「碓氷峠」の
想い出に浸りたくて
数年前の年末に
碓氷峠のふもとの
横川にある
「碓氷峠鉄道文化むら」を
訪れたのである。

父「というわけで・・・
  ここはいろんな
  ドラマが凝縮された
  場所なんじゃ。
  娘よ、楽しい?」
娘「寒い・・・。」
妻「年末大掃除をサボって
  どこいっとんじゃ!
  はよ帰ってこい!」
父「すまんすまん、あわてて
  帰ってきたから、車内に
  娘のマフラー
  忘れてきちゃったよ。
  横川まで取りに行っていいい?」
2人「もう一歩も外出るな~!」

おわり。

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