①「愛、深き淵より
 ―筆をくわえて綴った生命の記録―」

星野富弘/立風書房/1981年1月

②「風の旅」
星野富弘/立風書房/1982年1月


実家にあって昔読んだ①。
両親が大好きで大事にとってあった。

学生の頃、
かの有名な男声合唱組曲「花に寄せて」を
歌う際に、購入し今も大事に読んでいる②。


また、迫力を生で感じたくて、
両親と自分で3人でドライブして
東村の富弘美術館にいき、
一番大好きな「たんぽぽ」の絵葉書を
複数枚購入した。

そして腑に落ちた胸に迫る
演奏ができたと思ったことを
覚えている。


その「たんぽぽの絵葉書」
そのうちの一枚は、
自分の職場のデスクマットに飾ってある。
それの重さを毎日かみしめながら
自らを奮い立たせ仕事に励んでいる。


さて、その星野富弘だが
①②の本によると
重大なけがをするまえの大学時代は、
同郷の詩人、
萩原朔太郎山村暮にも
親しんでいたという。

しかしながら
不幸な事故が起こり
病院で身動きがとれなくなり
何もできなくて絶望の最中にあったとき、
ふと昔覚えた詩が思い出されて
何回も何回も暗誦した。
そしてそれが希望が見えてくるきっかけに
なったのだとのこと。

その覚えていた詩人は
八木重吉三好達治だったという。

中でも
三好達治「甃のうへ」
が覚えやすく
詩自体にリズムがあり
暗誦しやすかったのだという。


「甃のうへ」  
   三好達治


あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに
語らひあゆみ
うららかの跫音
空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなき
み寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりに
うるほひ
廂々に
風鐸のすがた
しづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする
甃のうへ

(1926年春の作)


テキストは書けなくても
文字は変化しても
その時代に書かれたものは人々の心に確かに残る。
大切なことはイメージと
詩に込められた様々な想いなのかもしれない。


テキストを超えた世界にあるものといえば、
筆者が思いだすこの小説。


「華氏451度」
(作:レイ=ブラッドベリ 
早川書房/1953年10月)


文字が禁じられて
本が片っ端から燃やされてしまう(現代の焚書)
狂った世界を描いたディストピア系物語。
映画もあります。
1966年のものがこちら。

2018年のものがこちら。

どちらもおすすめ。
小説を味わってから映画を観ることを
おススメします。
映像化するとき、
こんな風に表現するのカイ!と
涙ながらに突っ込めること幸いです。

「難しい本なんか読んでるから迷うんだよ。
民衆はTV観て楽しんでたらいいんだよ。」
という戦慄を覚える社会になってしまう。


本を燃やす職業が
「消火士」でなくて
「昇火士」

主人公は「昇火士」だったが、
自分の職業に疑問を持ち
管理社会から逃げ出し森林地帯へ逃走する。

そこには、文字を奪われた人々の中にあって
ありとあらゆる古典を暗誦している人々が
レジスタンスとして集結していた。

もう燃やされてしまって、原本は残って
いないのだが、それぞれの頭の中にあり、
口承として後世に残せる可能性はある、
というラストシーンが印象的。
(小説と映画をミックスしています。)


多田武彦が取り上げる近代詩も
現代に生きる私たちには難解なものが多い。
しかし、詩とメロディーが一体となって
曲となったこの日本に存在したという事実はある。

関連して、紹介したい本がこちら。


「ドーナツを穴だけ残して食べる方法はあるのか?」
最初の思い付きは、突拍子もないことである。
しかし、それを大真面目に様々な角度から検証していく、
という大学生の姿に感動を覚える。

どんどん周りを巻き込んで、

一大プロジェクトになっていく過程が楽しめる本。


もちろん、結論は出ないしそれでよいのだが、
この本の最後に書かれていた言葉にしびれた。

ドーナツの穴が消えたのではなく、
まわりの壁が消えたのである。
穴そのものは消えないように
人の心にある理想も消えることはない。
-井上 洋一(星ヶ丘厚生年金病院相談役)

この言葉を自分の座右の銘として、
自分の手帳に書き留めている。

近代詩のような難しい表現でなく、
もっとわかりやすい表現で、
世界の共通語である英語で、
という風潮の中で日本語が
少しずつ変化していったとしても
三好達治や北原白秋が生きていた時代が
遠い過去のものになっても
多田武彦の曲に触れた人々の
理想の光は消えることはないだろう。


ま、いい詩にふれていい歌を歌う。
そのひとつひとつを大切にしたいと
いうことである。

おわり。

にほんブログ村 音楽ブログへ 
にほんブログ村