「上野ステエション」
   室生犀星


トップトップと汽車は出てゆく
汽車はつくつく
あかり点くころ
北国の雪をつもらせ
つかれて熱い息をつく汽車である
みやこやちまたに
遠い雪国の心をうつす
私はふみきりの橋の上から
ゆきの匂いをかいでいる
汽車のあかりもみえる橋の上

(『抒情小曲集』より
 感情詩社/1918年9月)


東京は上野駅の
地上ホームからでる
列車が好きだ。
今はなき「北斗星」が出発していた
13番線ホームは特に好きで、
13番線発列車があるなら、
1時間くらいまで駅で待つぞ、私は。


妻「いいから、早く帰ってこんか。」
父「鉄道の浪漫がわからぬか。
  詩人の望郷の思いに
  涙するでしょうが!
  (北●国からの
   田●邦衛ばりに)」
妻「山手線の隣からでる電車と
  行き先が違うんか?」
父「・・・同じです。」


鉄道は詩人のうたごこころを
大いに刺激するらしい。   


「一握の砂」より
   石川啄木


ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴ききにゆく

(『一握の砂』
 東雲堂書店/1910年12月)


ま、そういうものである。
詩人と鉄道は深~い関係が
あるのである。


筆者の
すでにこの世にいない
父の故郷は佐賀。

帰郷の際には、
今はなき東京駅からの
寝台特急「さくら」や
「みずほ」に揺られて
じいさんやばあさんに
逢いに行ったもんです。

親父は下段の寝台で
酒を飲んだりして。
西へ西へと走る
夜汽車を家族みんなで
楽しみにしていた。


だから、
鉄道の旅と
亡き父の思ひ出は
どうしても
シンクロしてしまう。


「早春」
  津村信夫


淺い春が
好きだつた──
死んだ父の
口癖の
そんな季節の
訪れが
私に
近頃では
早く來る
ひと月ばかり
早く來る

藪蔭から
椿の蕾が
さし覗く

私の膝に
女の赤兒
爐の火が
とろとろ燃えてゐる
山には
雪がまだ消えない

椿を剪つて
花瓶にさす

生暖かな――
あゝこれが「生」といふものか
ふつと
私の頬に觸れる

夕べの庭に
ゆふ煙
私の性の
拙なさが
今日も
しきりと
思はれる

(『父のゐる庭』
 /臼井書房/1942年)


筆者が
就職したての頃、
まだ元気だった父と
よく酒を飲みかわした。
厳格だった父だが、
酒を飲みながら
赤ら顔で
結構
嬉しそうだった。

そんなとき、
ふと、何気なく
父にたずねたことがある。
「故郷の佐賀は
 恋しくないのか」
と。


父は少し考えて
こう答えた。

「さびしくないわけではない。
 しかし、
 今帰ったとて、
 空白の時間がうまるわけでは
 ない。
 今住んでいるところ、
 お前が住んでいるところが
 故郷じゃ。」


酔っぱらっていたが、
こんな答えだったと思う。

今なら、父の気持ちが
少しわかる気がする。


簡単に人の気持ちは
わりきれないが、
きもをすえて
生活していくことも
大事だと。


そういうわけで、
多田武彦「父のゐる庭」。
父を喪った冬から、
もう7回目の冬を越した。
なかなか冷静に向き合えない
曲集だったが、
所属する男声合唱団の
レパとして
この冬の演奏会で
歌ってから
やっと呑み込めた気がする。


いろんな経験を
いろんな感情を
いろんな立場を

乗り越える旅
乗り越える度
少しずつ
見える景色が
ちがって
好きになれる
曲集が増えていく。


だから
多田武彦の
曲を歌いたい。
 
おわり。

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