本ブログの別の記事で、
書いたことの補足。

室生犀星の
『青き魚を釣る人』の
「春の寺」(1923年/)の
意識的な「本歌取り」だと
 指摘したのは
大岡信と書いた。


「本歌取り」についは
学研全訳古語辞典、
などを引いてみると

「本歌取り」
和歌・連歌(れんが)の
表現技法の一つ。

古歌(典拠とする古歌を
「本歌」という)の
用語・表現・情趣などを
採り入れて詠み、より
複雑な趣を出す技法。
新古今時代に盛んに行われた。
とのこと。

ああ、高校の古典の授業、
ちゃんと聞いとけば
よかったなあ。
後悔先に立たず。


肝心な「春の寺」を紹介
し忘れていたので
補足。


「春の寺」
   室生犀星


うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹〔ぎ〕に
すゞめら交〔さか〕り
かんかんと鐘鳴りて
すずろなり。
かんかんと鐘鳴りて
さかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして
遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。

(1923年の作)

「甃のうへ」  
   三好達治


あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに
語らひあゆみ
うららかの跫音
空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなき
み寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりに
うるほひ
廂々に
風鐸のすがた
しづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする
甃のうへ
(1926年春の作)

先日、同じ合唱団の
尊敬する名テナーの
Tさんが
オンステした
演奏会を拝聴した。

人生の大ベテランの
皆さんによる
大事に大事にうたわれた
「わがふるき日のうた」。
我が胸に
あたたかな感動をもたらした。


この曲集をきいて
改めて気が付いたのだが、
「わがふるき日のうた」にも
掛詞が入っているではないか。
ふる・・・旧、振る、降る、経る、

何という事だ。

人生の先輩方の歌に教えられた。

私は今まで何をしてきたか。

これだから、
ライブ感覚を忘れては
いけないのだなあ、と
気が付いた春。


おわり。


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