「月の光 その一」
中原中也
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
お庭の隅の草叢に
隠れてゐるのは死んだ兒だ
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て來てる
ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
(『在りし日の歌』/
創元社/1938年)
中原中也は高校の国語の
教科書に
「汚れちまった悲しみに」が
載っていたのを覚えている。
悲しみに形容詞がついた
インパクトと
弾き出される言葉の
ぎりぎりした感覚が凄いと思った。
大学時代になり、
今までの
社会科の中での「歴史」と
大学での「歴史学」という
学問のギャップに、
とまどい
さまよううちに、
隆慶一郎という作家を知り、
その師匠筋の小林秀雄と
中原中也と
ランボオが繋がった。
筆者が敬愛する
隆慶一郎が好きな詩として
中原中也の
次の詩を引用している。
「寒い夜の自我像」
中原中也
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆せうさうのみの
愁かなしみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉よろめくままに静もりを保ち、
聊いささかは
儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫いさめる
寒月の下を往きながら。
陽気で、坦々として、
しかも己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!
(『山羊の歌』/文圃堂/
1934年12月)
そして二十代半ばにして、
多田武彦作曲の
『中原中也の詩から』
に巡り会う。
難しい曲集だなあ、
というのが第一印象。
しかし聴きこみ、
譜面を読み込んでいくと、
しみじみとした
味わいがでてくる。
特に印象的なのが終曲である
冒頭の曲「月の光」。
月の光は、
地球に届くまで1.8秒。
でもこの間にか
地球上の何処かで
2人が亡くなっている、
と理科の本に書いてあった。
ほんの瞬間でも、その重みは
それぞれの人にとって
大きなものであるだろう。
大切な近しい人を
次々に見送ってきた
中也にとっては特に。
孤高の人、無念の人、
信念の人という、
様々な面を持つこの詩人の
激烈な生き様を
この詩と曲は
感じさせてくれる。
家人の寝静まった深夜、
灯りを消して月を見上げる。
いつもの吟醸酒もいいが、
今宵は
バーボンのオンザロックが
中也には相応しいか。
グラスを傾けて月との距離を
測る。という行為は
常に過去との対話で
深度を測る音楽と同じだなあ、
と感じる。
この詩と曲は
そんな気持ちに
させてくれるのだ。
頬にあたる
夜風も気持ちがいい。
妻「夜中に窓全開で
何しとるか。
早よ寝んか!」
ガラガラ、ピシャ。
あれ、人って
月から届く光の速さと
同じ時間で泣けるんだね。
さあ、月の光と山の神が
勢ぞろいしたからには、
ここらが潮時ですか。
もう寝るか
飲み干し寝るか
もう朝か
嗚呼、凡人が
歌心を働かせても
サラリーマン川柳止まりなり。
おわり。
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