仰々しく書き出したが
いかに多田武彦に
はまっていったのかを
記録に残しておきたい。
以下物語風に。
序
あれは
大学三年の混声合唱団
テノールパトリ時代のこと。
第1部
高校時代を80人規模の
混声合唱団で過ごした筆者。
楽しかったが、
コンクールで競い合った
高校男声合唱団が沢山あり
その力強さに憧れていた。
「大学に入ったら
絶対にグリークラブに入ろう。」
と、思っていたが
たまたま合格した大学にだけ
グリークラブがなかった。
失意の内に最初の日々を
過ごしていたある日、
キャンパス中に学生部からの
呼び出し放送が響き渡る。
学生部
「〇〇大学グリークラブの代表は、
学生部までくるように。」
若き私
「なんだ、グリークラブあるじゃん。
よし、代表にコンタクトとって
今からでも入部したれ!」
学生部に急行するも
それらしきグリーメンはおらん。
ジャケット着て
なんか長いケースもった
兄ちゃんしかおらんぞ。
学生部
「えー、釣りクラブさん。」
若き私
「グリークラブぢゃなくて
ツリークラブかい!」
ビルの谷間で・・・。
東京砂漠に
取り残された
おとこがひとり
いるならば。
おお、おそらく
彼はさけぶだらう。
「放送の滑舌が
わるいんじゃー!
あめんぼあかいな
あいうえお!」
ほんとにもう。
仕方なく、
ではなく喜んで
◯◯大学混声合唱団に
入団した若き私。
妻「あんた、いま
あたしの殺気を
察して言い換えたな!」
妻は
わたくしの
大学時代の
1年先輩なんである。
いえ、決して
こわくはないです。
アルトのパトリであり、
大学時代のアダナが
「おやびん」だから
察してよなんて、
くちがさけても
言えません。
妻「こらー!ばらすな!」
夫「でた、大学時代の必殺フレーズ!
『何なの何なの何なのよ~』
あんた、技術部系で恐怖の
4-4ー5システムって
言われてたの知っとった?」
妻「皆まで言うな!」
ま、愛されキャラだった
とフォローしておこう。
第2部
出だしはともかく、
気が付けば
テノールサブパトリと
サブステマネを兼任し、
合唱団の表と裏をひそかに握って
わが世の春を謳歌したのである。
まあ、なんだかんだと
2年が過ぎた。
そうこうするうちに
バブルが弾けて、
何かと浮かれた時代も終わり、
何か地に足のついた曲を歌いたい、
などと不遜にも思っていた
二十歳そこそこの若造の頃。
大学も3回生となり、
執行学年になろうとしていた。
同期の学指揮さんが
良い曲があるよ!と
提案したのが
あの難曲と名高い
多田武彦『京都』であった。
・・・とにかく難しい。
その当時は多田武彦?
WHO's who?という
失礼千万な輩だった。
しかし、
パトリの責任感から
兎に角にも音取りをした。
件の学指揮さんは
筆者が
今まで歌ったことのある
20人あまりの指揮者の
中でも音楽センスは
五本の指に入ると確信する大物。
その彼でさえも
限られた練習期間の関係上
全曲演奏を断念せざるを
えない程だった。
そんな訳で、
正直、多田武彦という方の曲に
もう縁はないかな
と思っていた。
第3部
パトリの責任学年の
定演も無事に終え、
混声合唱団という団体の性格上
常について回る男女関係の
ややこしさに疲れはてていた。
ヤッパリ
男声合唱がやりたいなあ、
と思っていたら
同期の悪友が
「お遊びで
男声合唱やろうぜ」
と声を掛けてきた。
しかもその時彼は
譜面を持っていなかったので
悪友の耳コピで。
たまたま
ダベッていた3人が
全員テナーだったので
悲壮な決意で悪友より曲を教わる。
曲は多田武彦『柳河』。
流石に曲名くらいは
しっとるよ。
仕方がない、
高校時代ぶりに
私がBASSをやったろうじゃん。
もうしもうし
やながわじゃ
かねのとりいを
みやしゃんせ~!
らんかんばしを
みやしゃんせ〜!
みやしゃんせ〜!
3人
「おお、すごい
ハモりじゃ。」
悪友
「すごいだろ、
で、ここから
テナーソロが入って
ハミングが ささえるんじゃ。」
3人
「はよ続きを教えんか!」
悪友
「ここまでしか
覚えとらん。
後はバリトン
しかわからんのじゃ。」
3人
「あいたー!」
ま、しょうがないので
そこまで何回も繰り返しては
楽しんでその場は終わり。
その三ヶ月後、
件の悪友に誘われて
とある90人位の
男声合唱団に参加することになる。
嗚呼、
大学四年の
忙しい時期だと云ふのに。
悪友が云ひださねば
それで忘れたのだと
思っているのか。
ドキドキしながら
初練習に臨んだ。
第一声。
「ふんわりと~?」
(多田武彦『雪明りの路』
第1曲「春を待つ」の出だし。)
なんだこのGdurの
ハモりのすごさは。
私は今まで
何をしてきたか。
爾来、筆者は
男声合唱、特に
多田武彦の熱中時代
の最中にある。
まだまだ続くぞ。
おわり。
コメント