最後、バーン!と大団円で
終わる大迫力の曲集も
もちろん大好き。
また、しみじみと幕をとじる
曲集も
もちろん大好き。

『海に寄せる歌』の終曲。
様々な海の風景、物語が
6曲れた展開されたあと、
穏やかな海の風景が
ひろがる。


「ある橋上にて」
   三好達治 


十日くもりてひと日見ゆ
沖の小島はほのかなれ

 いただきすこし傾きて
 あやふきさまにたたずめる

 はなだに暮るるをちかたに
 わが奥つきを見るごとし

(一點鐘/創元社/1941年)

1939年2月に
小田原市早川に転居。
その直後の3月に
目をかけていた
早熟の天才
立原道造が死去。
まだ長女は2歳。

そんな中で生まれた詩。

人生への様々な想いが
込められている。


小田原市早川の地図を見ると
角度的に沖の小島は
伊豆大島しかみえないので
たぶんこの島だろう。

萩原葉子「天上の花」
によると
この島に旅行したことが
ある達治は、親近感を
持っていたという。


しかし島に親近感を持つという
感覚は、難しい。
そこで参考の物語を紹介。

河合隼雄が執筆した
「明恵 夢を生きる」によると、
明恵(みょうえ)上人
(1173年-1232年/
鎌倉時代の華厳宗の僧侶)
という変わった方がおられた。

19歳の時から60歳で死に至るまで、
約40年間にわたって
夢日記を記録し続けたという。

中でも有名なのが
「島への手紙」の話というのがある。

和歌山県に「苅磨(かるま)の島」
という島があるという。
明恵上人が子供の頃に
よく遊びに行っていた島とのことだが、
明恵上人はある時、
島へと向けて一通の手紙を書いた。

それは人間に対してではなく、
島そのものに書かれた手紙であった。
そしてその手紙を
弟子に苅磨の島へと届けさせた。

弟子が
「どこに持っていけばいいか」
と尋ねると、
「苅磨の島に行き、
栂尾の明恵房からの手紙だと
高らかに呼んで
打ち捨てて帰って来なさい」と
明恵上人は答えたという。

その手紙に関しては、
弟子は言いつけ通り、
島に置いて帰ってきたので
原本は残っていないとのこと。

内容はおおまかには
こんな内容だったという。

いろんなことがある
信じられないこの世の中で
 大自然を友としまして、
何の咎め があろうか。
 仏心を学ぶに、
人界だけでなく
自然を友として
何の咎めがあろうか。
知恵の働く人よりも、
本当に面白い遊び友達には、
あなたのように
深く信頼出来る方こそ
ふさわしいのだと。

なるほど、
凡人にはなかなか
呑み込めない境地であるが
そんな気持ちもあって、
明恵上人も達治も
手紙に書いたり
詩に読んだりして
人生というものに
想いをめぐらせたのだなあ、
と思はれる。

「ある橋上にて」。
しみじみといい名曲である。

おわり。