多田武彦作曲
「わがふるき日のうた」の中の詩。
三好達治の詩の中でも
もっとも有名なもののひとつで
高校の国語の教科書にも頻出の詩、
第1曲目「甃(いし)のうへ」
にまつわる7つのポイント。
(大学受験には出そうもないですが。)

「甃のうへ」 
   三好達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
(『測量船』第一書房/1930年)

三好達治が影響を受けた詩人(文学者)
自他ともに認める師匠、萩原朔太郎。

ほぼ師匠といってもいい、室生犀星。

同年代ながらも早熟なる天才、堀口大學。
「月下の一群」でフランス文学の
訳詩の可能性を感じ、
「月光とピエロ」で日本の詩の
可能性を感じ、
詩作に励むきっかけとなったという。

心の友、梶井基次郎。
短編『檸檬』の作者。
詩人ではないが、達治の詩に対し、
常に鋭い指摘をしてくれた。

三好達治の特徴
フランス文学、中国古典、日本の古典、
特に古今和歌集に詳しい。
「掛詞」「本歌取り」を得意とするので、
何気ない単語や文脈にいろいろな仕掛けあり。

処女詩集「測量船」について
1930年発表。
停滞気味の文壇に、
いろんな試みの形態のものを
書き溜めた作品群を盛り込んで、
船出する、
とは作者の自負心なり。
代表作「甃のうへ」は
1926年春の作といわれている。
 
甃のうへの背景
室生犀星の『青き魚を釣る人』の
「春の寺」(1923年/大正12年)の
意識的な「本歌取り」だと
指摘したのは
大岡信(詩人)である。

もっとも師匠朔太郎には
早々に見抜かれていたらしい。

青少年向けの
詩の味わい方の本では、
この時代の詩の特徴を
良く表した詩で、
その心は「春愁」である、
と説明されていた。

甃のうへにでてくる言葉
「あわれ」の繰り返しは
   代表的な韻。
 
「あわれ」と「ながれ」は隠れ韻。

みてら。
どこでもない普遍的な寺と
本人は述べているが、
御寺といえば京都の泉涌寺(せんにゅうじ)か。
天皇家の菩提寺として有名。
よってこの詩の舞台も、京都が有力かと。

跫音。
足音との違いは、石の上をあるく音で
カツカツと反響が響き渡る音の事。

風鐸。
お寺にある風鈴の仲間。

作曲者多田武彦の背景
大阪の銀行の支店長として
故郷に戻ってきたのを
契機として作曲。

三好達治の詩については
何度か挑戦したが、
挫折していたと本人は述懐。

多田武彦第3集の3つの組曲を
立て続けに作曲した。
 わがふるき日のうた・・・1977年
 海に寄せる歌・・・1977年
 追憶の窓・・・1977年

中でも「わがふるき日のうた」は
処女詩集「測量船」(1930年)から
戦後の「砂の砦」(1946年)までを
カバーした足の長い曲集ですので、
ことさらに味わい深いものがあります。

三好達治が見出した人(救った人)
尾崎喜八。
戦後にパージされそうになった危機に、
達治が、我が身を省みず全面的に擁護。
それが詩集『花咲ける孤独』
(「冬野」「春愁」「かけす」など収録)を
生み出す原動力となった。

立原道造。
しかし達治より先に早逝。
才能が惜しまれる。

谷川俊太郎。
10代の若き青年の詩を見て感動し、
どんどん投稿するように勧めて
世に出るきっかけを作った。

などなど、備忘録的にまとめました。

おわり。

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