多田武彦が
三好達治の詩に
いきなり「ガッと」取り組んで
ほぼ同時期に
書き上げた3つの組曲がある。
『わがふるき日のうた』
『海に寄せる歌』
『追憶の窓』
である。
どれも素晴らしい出来なのだが、
『追憶の窓』については、
3曲目の「雨後」は
アンコールピースとして
有名であるものの、
組曲全体の
演奏を聴く機会はあまりない。
いつかは取り組んでみたい
組曲であるが、
その中で組曲の題名の
モチーフとなった詩について
紹介する。
「毀れた窓」
三好達治
廢屋のこはれた窓から
五月の海が見えてゐる
硝子のない硝子戸越しに
そいつが素的なまつ晝間だ
波は一日ながれてゐる
その額緣に
ポンポン船がやつてくる
灰色の鷗もそこに集つて
何かしばらく解けない謎を
解いてゐる
あとはまたなんにもない靑い海だが
それがまた何とも妙に心にしみる
ぽつかり一つそんな時
鯨がそこに浮いたつて
よささうな鹽梅風にも見えるのだ
それをぼんやり見てゐると
どういふものか
俺の眼にはふと故鄕の街が
うかんできた
古い石造建築の
どうやら銀行らしいやつの
くつきりとした日かげを
俺が歩いてゐる
まだ二十前の俺がそれから廣場を
また突切つてゆくのだ
ああそれらの日も
もうかへつては來なくなつた……
そんな思出でもない思出が
随分しばらく俺の眼さきに
浮んでゐた
どういふ仕掛けの窓だらう
何しろこいつは素的な窓だ
丘の上の
松の間の
廢屋のこはれた窓から
五月の海が見えてゐる
(『一點鐘』創元選書/1941年)
★一點鐘(いってんしょう)とは、
約1時間のこと。
柱時計のうつ音を表す。
★この詩を読む際に、参考にしたい
講演記録がある。
1962年のニューヨーク公共図書館での
10代向けの講演で
講師がパメラ・フランカウという
アメリカの作家の言葉を
引用し、若者に語りかけた。
要約すると次の通り。
「あなたの鏡がすべて窓になる。
そんな瞬間が必ず来る。
私たちは幼い時は鏡に囲まれている。
振り返ればいつも自分自身を見ている。
成長するにつれて、鏡は消え、
窓が私たちの視界を占めてくる。
展望は広がり、他者が自分をどう見るかを
学んでいくようになるのだ。
他者を見ることにより、
感性や人生の多様性を学び、
自分自身を理解するのである。
窓は鏡のように単純ではないが、
だからこそ人生にとって
素晴らしい存在になるのだ。
それが大人になるということだ。」
★三好達治が『測量船』で表現した
「enfance finie」
「乳母車」などにみられる
『鏡』的世界はもう去ってしまい、
不惑を前にした自分には、
「窓」しかない。
★しかし、「毀れた」「窓」なら、
「鏡」みたいな錯覚だってあるかもよって
いう感性を笑うことはできないと思う。
★そんな「窓」だから、
想い出だって写るんです。
★達治は大阪生まれだが、京都、兵庫など
15歳までに8回転居している。
実家の稼業は破たん、父は行方不明。
帰れる故郷、想い出に残る
故郷はなかったのでは。
★二十歳前の自分は石造建築の広場を
手を振ってなんて歩けなかった。
(たぶん大阪のオフィス街でしょうね。)
病弱で、学校も休学してしまったし。
★などなど、物語の進行をバリトンソロが
盛り上げ、
終曲の「昨日はどこにもありません」
という難曲に続きます。
「昨日は・・・」については
機会を改めて書きます。
おわり。
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三好達治の詩に
いきなり「ガッと」取り組んで
ほぼ同時期に
書き上げた3つの組曲がある。
『わがふるき日のうた』
『海に寄せる歌』
『追憶の窓』
である。
どれも素晴らしい出来なのだが、
『追憶の窓』については、
3曲目の「雨後」は
アンコールピースとして
有名であるものの、
組曲全体の
演奏を聴く機会はあまりない。
いつかは取り組んでみたい
組曲であるが、
その中で組曲の題名の
モチーフとなった詩について
紹介する。
「毀れた窓」
三好達治
廢屋のこはれた窓から
五月の海が見えてゐる
硝子のない硝子戸越しに
そいつが素的なまつ晝間だ
波は一日ながれてゐる
その額緣に
ポンポン船がやつてくる
灰色の鷗もそこに集つて
何かしばらく解けない謎を
解いてゐる
あとはまたなんにもない靑い海だが
それがまた何とも妙に心にしみる
ぽつかり一つそんな時
鯨がそこに浮いたつて
よささうな鹽梅風にも見えるのだ
それをぼんやり見てゐると
どういふものか
俺の眼にはふと故鄕の街が
うかんできた
古い石造建築の
どうやら銀行らしいやつの
くつきりとした日かげを
俺が歩いてゐる
まだ二十前の俺がそれから廣場を
また突切つてゆくのだ
ああそれらの日も
もうかへつては來なくなつた……
そんな思出でもない思出が
随分しばらく俺の眼さきに
浮んでゐた
どういふ仕掛けの窓だらう
何しろこいつは素的な窓だ
丘の上の
松の間の
廢屋のこはれた窓から
五月の海が見えてゐる
(『一點鐘』創元選書/1941年)
★一點鐘(いってんしょう)とは、
約1時間のこと。
柱時計のうつ音を表す。
★この詩を読む際に、参考にしたい
講演記録がある。
1962年のニューヨーク公共図書館での
10代向けの講演で
講師がパメラ・フランカウという
アメリカの作家の言葉を
引用し、若者に語りかけた。
要約すると次の通り。
「あなたの鏡がすべて窓になる。
そんな瞬間が必ず来る。
私たちは幼い時は鏡に囲まれている。
振り返ればいつも自分自身を見ている。
成長するにつれて、鏡は消え、
窓が私たちの視界を占めてくる。
展望は広がり、他者が自分をどう見るかを
学んでいくようになるのだ。
他者を見ることにより、
感性や人生の多様性を学び、
自分自身を理解するのである。
窓は鏡のように単純ではないが、
だからこそ人生にとって
素晴らしい存在になるのだ。
それが大人になるということだ。」
★三好達治が『測量船』で表現した
「enfance finie」
「乳母車」などにみられる
『鏡』的世界はもう去ってしまい、
不惑を前にした自分には、
「窓」しかない。
★しかし、「毀れた」「窓」なら、
「鏡」みたいな錯覚だってあるかもよって
いう感性を笑うことはできないと思う。
★そんな「窓」だから、
想い出だって写るんです。
★達治は大阪生まれだが、京都、兵庫など
15歳までに8回転居している。
実家の稼業は破たん、父は行方不明。
帰れる故郷、想い出に残る
故郷はなかったのでは。
★二十歳前の自分は石造建築の広場を
手を振ってなんて歩けなかった。
(たぶん大阪のオフィス街でしょうね。)
病弱で、学校も休学してしまったし。
★などなど、物語の進行をバリトンソロが
盛り上げ、
終曲の「昨日はどこにもありません」
という難曲に続きます。
「昨日は・・・」については
機会を改めて書きます。
おわり。
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