男声合唱組曲『父のいる庭』を歌いました。
名曲でしたので、
少し調べてみたのをまとめてみます。

津村信夫と男声合唱組曲『父のいる庭』のこと。

男声合唱組曲『父のいる庭』

1「父が庭にいる歌」
2「太郎」
3「早春」
4「紀の国」

作品の背景
☆昭和17年11月20日発刊。全33編
☆昭和11年1月から昭和17年4月
    までに発表されたもの。
☆昭和16年7月、東京から北鎌倉に転居。
 戦時下の徴用を逃れるために横浜市の
 日産自動車社内青年学校に
 教師として勤務。
☆そのために四季の編集は後進に譲って、
 詩作に打ち込みたかったが、
 逼迫する戦時下の状況のなか、
 なかなかうまくいかない。
☆そのため、これまでの表現の華麗さや
 感覚の鋭利さよりも
 静かな知性、悟性を尊ぶ
 作風へと変化した。
☆具体的には、作品上から
 一切の句読点が消えている。
☆その意味で、
 この詩人の転換点となった詩集。
☆音楽に造詣が深く、かのゲーテのように、
 音楽を聴きながらイメージをとらえ、
   「ことば」に 
 することを試みていたとのこと。
 
「紀の国」について
☆そが人の御墓かざる・・・
 父秀松の墓は東京の多磨墓地にある。
 この場合、紀の国に
 あるかもしれない墓と、
 実際の墓とのダブルイメージで
 時空をこえた「つながり」を
 想定できるかもしれない。
☆ゆづり葉のみどりの國ぞと・・・
 ゆづり葉の別名は
 「ゆずるは」「おやこぐさ」。
 「ゆづり葉のみどりの國ぞと」の場合の
 「ゆづり葉の」は枕詞として
 考えてよい措辞(そじ)とのこと。

「紀の国」にまつわる余談。
 私の大学時代の同級生の
 アルトパートリーダーだった
 親友が、三重と和歌山の
 県境の出身でした。
 そこは湾の内に死んだやうな
 小さな入り江のまちで
 お互いに孤立したような
 ところだったそう。
 昔は船しかアプローチが
 なかったそうです。

 伝説では壇ノ浦合戦に
    駆けつけるために、
 平家軍団が西に大移動したのですが、
 間違ってこの地にきてしまい、
 魚はうまいわ、あたたかたいわ
 どうせいくさにゃまにあわないや、
 でそのまま
 住んでしまった一族がいて、
 彼女はその末裔なのだそう。

 その人は、
 お父さんも、お母さんもOさん(同じ名字)。
 親戚も幼馴染もOさん(同じ名字)。
 〔後年、私は
 その町の林業に従事する
 若者のトピックをNHKのニュースで
 偶然見たが
 やはりOさん(同じ苗字)だった。〕

 う~む、奥が深いぞ、M山町。

 また、壬申の乱で勝利した天武天皇を
 中心とする、天武王朝は、
 全国の国名を
 漢字二文字に変更させた。
 その時に紀の国は「紀伊」となった
 はずですが、
 このうたでは、紀の国ぞ、
 なが父の生まれしところぞ、
 おお父の国、という郷土愛溢れる言葉に
 満ちている。
 
 また紀伊半島は
    戦国時代最強とうたわれた
 九鬼水軍をはじめとして、
 海の男どもと海女さんの宝庫、
 楽園だったのかもしれませんね。
 最後に、
 紀の国の導入部分の
 うっそうとしげるみかんの木
 をかいくぐるかのような
 ふしぎなデジャヴの感覚を
 もっと味わい方に
 オススメなのが


 入り江にアプローチする
 情景描写が秀逸。
 え、古い?
 すみません、昭和生まれなもので。
       
 ★参考文献
     「津村信夫全集 第1巻 詩編」
   昭和49年発刊

歌詞(詩)については、
下記リンクを参考にしてください。
非常に参考になります。

多田武彦〔タダタケ〕データベース


おわり。

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