そうか、君は只々タダタケだけだったっけ?その壱のつづき。
●できれば、演奏の際にはここで少しでも「間」を
あけてほしいですね。
ハンカチで汗をぬぐうだけで、
涙を拭いたと同じ効果があると思いませんか。
聴衆も張りつめた息をはく「間」になりますね。
「雪はふる」
三好達治
海にもゆかな
野にゆかな
かへるべもなき身となりぬ
すぎこし方なかへりみそ
わが肩の上に雪はふる
雪はふる
かかるよき日をいつよりか
われの死ぬ日と願ひてし
●出だしの和音が一曲目と一緒、
でも譜割が違います。
前のめりになっている。
そこに、
「すべてはおわった。
でもすっぱり割り切れないよなぁ。」
という多田武彦の優しいまなざしを感じます。
●ここで日本の古典から紹介。
達治はもちろん知っていたでしょうね。
(古今和歌集111番詠み人知らず)
駒なめていざ見にゆかむ古里は
雪とのみこそ花は散るらめ
(大意)馬を並べて、さあ見に行こう。
古里では、雪とばかりに花は散っているだろう。
ここでいう古里とは、
古い由緒のある里のこと。
京都の人にとっては、
奈良・吉野などを思い浮かべることが多かった。
他に「荒れた里」「昔なじみの土地」など、
さまざまなニュアンスで用いられた語でもある。
●この短歌によれば、
達治には、三国の積もらぬ雪は花に見えたでしょうね。
平安時代前は、花といえば梅。
でも達治の故郷はどこにもありません。
どこにもいくところなんてない。
家族もいない。
【正確には母タツは
1956(昭和31)年まで長生きしますが、
一緒には住んでいませんね。
三国以降、一人で女神、アイコンとしての萩原アイという幻と
世田谷区でひっそりと暮らしていたそうです。】
●梅にまつわる「みやこ」に帰れぬ悲劇の知識人といえば
東風吹かば思い起こせよ梅の花
の菅原道真ですね。
●息を潜めてふりしきる雪、
花を見つめながら、
来し方行く末、もっといえば、
この国のかたちが保持されるかどうかを見極めるまで、
三国を離れられなかったのだと思います。
●なぜなら、
言霊の力を信じる達治にとって、
三国の地は「みやこ」の
鬼門だったからではないでしょうか。
京都にとっての鬼門は比叡山延暦寺。
江戸にとっての鬼門は上野寛永寺、
さらには日光東照宮。
我、言霊の鬼となりて、
「みやこ」を「やまと」を「あわれ」を守らん、
というのが、三国に疎開した本当の理由では
ないかと私は信じたい。
●三国を離れるまで、
まちの若い衆をあつめて文学の勉強会などを
主催していたそうです。
あるとき、ある若者が号泣し、
「わしは、先生の詩がまっこと
一個もわからんのじゃ。
教えてくれる先生に申し訳ない。」と
詫びたそうです。
そこで達治が、
やさしくその青年を含む
若い衆に語った言葉は、
「安心せい、ここに居る
誰もわかっとらんから。」
といって笑わせたそうです。
そこに込められた先生の
「簡単にわかってたまるカイ!」
という自負と自信と優しさに
私は一流の文学者としての達治をみます。
●1949(昭和24)年、三国を離れ、
世田谷区代田に移り住むまでが第2期、
それ以降を第3期とするようです。
●晩年は、恩師朔太郎の実家の近くで、
萩原葉子が作家として一本立ちするまで、
ありとあらゆる献身的な行動を
惜しまなかったそうです。
萩原葉子の「天上の花」も
こうして生まれました。
荻原家で疎外され、
経済的にも不遇だった葉子のために、
朔太郎の遺作や遺産を行き渡るようにしたり。
朔太郎と葉子の幸せを、
出版社と手打ちして安きに流れようとした
もう一人の師匠といってもいい室生犀星と大喧嘩したり。
●大切なものと
わかれてきたものの悲劇、
生き残ったものの悲劇を受け止めて、
達治は大きな仕事を成し遂げました。
だからこそ多田武彦の詩の
選択眼が確かである。と感服せずにはいられません。
●多田武彦は、
「海に寄せる歌」
【1976(昭和51)年】
「わがふるき日のうた」
【1977(昭和52)年】
「追憶の窓」
【1977(昭和52)年】
と立て続けに作曲しました。
多田武彦は1973(昭和48)年から1977(昭和52)年まで
仕事の都合で郷里大阪に戻ってきたそうです。
大阪のとある銀行の支店長だったので
激務でもあったのでしょう。
いろいろあったんでしょうが、
1970(昭和45)年からしばらく作曲活動をしていなかった
とのことです。
●多田武彦が若かりししころ、
「中勘助の詩から」を
関学グリーの委嘱で作曲した時も、
初演のライナーノーツで、
「近頃の十二音階にあらずんば
音楽にあらず、という風潮に
真っ向から勝負したかった。」
という強烈な自負を吐露した
記録が残っています。
関学の定演は1月、
正月の雰囲気を残した時期に、
雅な音色で完璧なハーモニーを
聴かせてくれたことが、
大いに自信になったことに違いありません。
●「わがふるき日のうた」の委嘱は
外山浩爾率いる明治大学グリー。
親父の外山国彦は
「山田耕作、北原白秋コンビの歌曲を
世に知らしめた偉才」。
多田武彦は、若いころ、
「日本の美しい心をうたった合唱曲を
たくさん作曲してください。」と
激励されたとのこと。
●その経緯があって、時がたって、
外山浩爾から
「そろそろうたを書きませんか」と背中を押され、
何度もトライして曲をかけなかった「三好達治」に
再チャレンジしてみようと思ったとのこと。
ほんに、多田武彦は熱き心に
溢れた作曲家だったんですな。
●今回の原稿を執筆するにあたって、
福井の三国港と
福井県立図書館
(三好達治コーナーがあり、
発禁本も含めて、お宝がざっくざく。)
を休暇を利用し訪ねた。
三国の東尋坊のすぐ脇にある
達治の「春の岬」の句碑には、
花ではなく松ぼっくりが
捧げられていた、(ト●ロか!)
松は「待つ」の掛詞。
来ぬ人を 松帆の浦の夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
(藤原定家)
<そして達治のまわりには>
●同時代の詩人で、
同じように戦争詩人と咎を受けた尾崎喜八。
戦前の国民集会で朗読し、
聴衆を全員泣かせた、
という逸話が残っており、それが戦後、仇となったのだ。
しかし、同じように、
いやもっと厳しい環境にあっただろう達治が、
「この詩のどこが戦争詩なのか。
労働と団結の喜びをうたった素晴らしい詩ではないか。
これをなかったことにすると、
日本の文学の大いなる汚点となるぞ。」と
公然とかばったという。
この体験が、
のちに尾崎喜八復活の詩集
「花咲ける孤独(冬野、春愁、かけすを収録)」
につながったと思うと感慨深い。
●1949(昭和24)年4月、
同じく戦争詩人とレッテルをはられ、
敗戦前に花巻に疎開し、田舎暮らしをしていた
高村光太郎を達治は訪ねている。
1951(昭和26)年4月に詩「雨」を作った
草野心平と、花巻で、お互いに肩をたたきあい、
はげましあったかもしれない。
(実際にはニアミスだったとしても、
心情的に、という意味で。)
●同年代で意外なのが、ものすごく長生きした
「堀口大學」(1892-1981)。
達治は、この早熟の天才にも心酔した。
「月光とピエロ」「月下の一群」には
夢中になった、と年譜にはある。
そして堀口大學こそが、
「生き残ってしまったもの」
「友を次々に見送る哀しさ」
を味わった詩人ではないだろうか。
達治に限らず、
詩人の友を失う度にその人の手向けに
数々の詩を残している。
いやあ、おなかいっぱい。
おかわりはいずれまた。
おわり。
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