そうか、君は只々タダタケだけだったっけ?
僕の男声合唱人生の中で、
胸を打つ物語が、
歌詞として取り上げられた
近代詩の中にある。
うたをうたうことの
原点となるこれらのものは、
つたなき僕の人生の中で、
何度も僕の人生を救った。
そしてこれからも救うだろう。
今回Kさんという
稀有な資質をもつ歌い手に触発され、
「三好達治」という
昭和の一大詩人の詩に取り組む機会を得た。
<決意表明>
●多田武彦男声合唱曲集3
「わがふるき日のうた」を中心に、
同時収録の「海に寄せる歌」
「追憶の窓」までを
視野に入れて、感じたままを書く。
●詩集、全集、随筆、エッセイなど
アクセスできる範囲で
調べられたものなので限界はある。
●紀貫之の精神を受け継ぐものは
「我なり」と言っているので
【詩集「故郷の花」序文より】、
時代が合わない、
あっていたはずがない、
という齟齬は気にしない。
文学なのであえて
出典はのせていない。
●常識すぎて記録に残っていない
日本の常識に
のっとった類推、
空想も自由におこなう。
なぜなら、文学だから。
自分の思い込みも十分にある。
●詩人も人間、
同時代のライバルや先人の仕事を
意識しなかったはずはない。
勉強せずに詩を書けたはずがない。
●多田武彦は
全て調べて、曲を書いた。と思われる。
なぜなら、三好達治に取り組むには、
そうとうの覚悟がいる、
とライナーノーツにかいているから。
決意表明は以上。
僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
男声合唱組曲『わがふるき日のうた』
以下、詩の出典や歌詞は
「タダタケデータベース」より情報を入手。
いやあ、便利になりました。
詩の出典
「甃のうへ」「湖水」
「Enfance finie」「郷愁」
以上『測量船』(第一書房、1930年)
「木兎」
以上『一點鐘』(創元社、1941年)
「鐘鳴りぬ」
以上『朝菜集』(青磁社、1943年)
※現在入手困難。
「雪はふる」
以上『砂の砦』(臼井書房、1946年)
「甃のうへ」
三好達治
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
●「甃(いし)」は敷き瓦のこと。
「み寺」こと「泉涌寺(せんにゅうじ)」は
敷き瓦の緩やかな下り坂のアプローチが印象的な、
京都にある天皇家の菩提寺(御寺)。
●うららかの跫音(あしおと)とは、
足音とは違い、
カツカツと響き渡る音ととらえる。
だから空にまで流れている。
ここまでが、
風が吹いて万物が流れている「動」の視点。
全ては過ぎ去っていくのだ。
●み寺の甍…から
そこで達治のところですべてが
「止まる」ことに気づく。
風鐸もちりんちりんなっていないし。
自分だけはひとりぼっちだ。
風鐸はお寺にある風鈴と同義。
●達治は幼くして苦労の連続。
大阪に生まれたが、親戚をたらいまわし、
親父は事業に失敗して失踪。
一家離散、自身も病気になり、休学。
たてなおして京都の旧制高校に入学し、
詩歌に目覚めたという。
そんな達治には
全てが無情の世に見えたのでしょうか。
「湖水」
三好達治
この湖水で人が死んだのだ
それで
あんなにたくさん舟が出てゐるのだ
葦と藻草の
どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合圖の笛はまだ鳴らない
風が吹いて 水を切る艪の音櫂の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする
ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと
誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が來てしまつたのに
●死んだのはだれか。
幼年時代の「達治」じゃないのか。
だから探してもみつからないのだよ。
それを高みから俯瞰して冷ややかな視線を投げている
少年時代の達治が見えてくる。
●大人には風にしか、見えないのだよ。
「となりのト●ロ」のトト●も猫●スも、
大人には見えなかったよね。
「風」が「幼年時代の達治」というのが次の曲への布石。
●ドハモリ一直線のB-durで書かれているが、
最後はD-durになり、しかも終止形になっていない。
つまり次の曲とリエゾンしている、
達治の幼年時代の風景の物語が
終わっていないということの暗示ではないか。
「Enfancefinie
(アンファンス フィニ/過ぎ去りし幼年時代)」
三好達治
海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。
鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
約束はみんな壞れたね。
海には雲が、ね、
雲には地球が、映つてゐるね。
空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、
大きな川のやうに、私は人と訣れよう。
床に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、
ああ哀れな私よ。
僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
●バリトンソロ以外の3パートは
「鳴り止まない風の音」ですかね。
●達治で注釈なしの「鳥」は「鷗」でしょうね。
ちなみに語源は籠の模様に姿が似ているからだそうです。
若さそして海の象徴。
ちなみに英でのことわざでは、世渡りが上手でない、お人好し、
という意味があるそうです。
日本語で平たく言えば「カモ」ですな。
フランス、聖書、中国、日本の文学に詳しい達治なら
当然承知の上、オイラモ不器用だからなあ、
でもあがいてやるさ、と
思っていたのかも。
●約束は、からは登場人物が2人になる。
すなわち、達治自身と幼年時代の達治が一緒に会話している。
だから、問いかけのような文体になっているのでは。
だからこのときだけは、
「風がやんでいる」よね。
●今日記憶のから、現実の達治の決意表明。
●僕は、さあ僕よ、で、
もうお訣れしなくてはいけない幼年時代の達治との最後の気持ちの交換。
もう現実の達治の前には出てこないよって、ピー●ーパンか。
※記述の都合により詩の順番が前後します。
なぜなら、詩の発表順だから。
「郷愁」
三好達治
蝶のやうな私の郷愁!……。
蝶はいくつか籬を越え、
午後の街角に海を見る……。
私は壁に海を聽く……。
私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。
隣りの部屋で二時が打つ。
「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。
――海よ、僕らの使ふ文字では、
お前の中に母がゐる。
そして母よ、佛蘭西人の言葉では、
あなたの中に海がある。」
●蝶の比喩について。
フランスの詩人ルナール
【にんじんを書いた人】
二つ折りの恋文が
花の番地を捜している。
生きるために一生懸命な蝶ですが、
愛しい人の住むところを探しいるようす。
小さい存在(蝶)から、
大きな存在(海、つきつめれば母か)
へと視点を向けさせる世界観を感じれば
フランスとつながるでしょうか。
●後年、井伏鱒二が、亡くなった達治の枕もとで語ったそうですが、
1920年ごろ、第三高等学校に入る前、
士官候補生だった達治は北朝鮮に赴任していた。
1920年頃、シベリアでの日本人大虐殺事件がおこり、
大いに憤激して、同志とともに軍を脱走し、
樺太までいったが、つかまってしまい、
退校処分にされてしまったとのこと。
実家にお金がなくて、軍人になろうと思ったのに。
憂国の志をもって行動したのに、すべて失ってしまった。
●そんな経緯もあって、
昭和3年より「詩と詩論」で仲間だった安西冬衛の詩に共感して
この詩を踏まえて、「海」「母」という題ではなく
「郷愁」にしたのでしょうか。
●「私は本を閉ぢる」「私は壁に凭れる」。
直截的には書いていないが
北原白秋的な「ええなんとせう。」の
溢れる想いを何気ない所作で表している。
端的にいると、「泣いている。」
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
(安西冬衛「春」)
いやあ、若かったよ、ワシも。かなあ、
でも母さんを思ってたのは事実だよ。
認めたくないものだな、
若さゆえの過ちというものを、フッ(ガ●ダムのシャア風に)
●ここまでの詩が、「測量船」に収められている詩3つ。
停滞気味の文壇に、いろんな試みの形態の
書き溜めた作品群を盛り込んで、船出する。
みんなの反応を推し量る。
自分の気持ちも推し量る。
という決意表明を込めた題名だそうです。
●多田武彦も、実験的な試みを作曲で施してますよね。
この曲集で。風の音とか、
次の曲のミミズクの鳴き声とか。
第一曲と終曲が同じキーで、
同じ音で始まるとか(後述。)
多田武彦にとってもこの曲集は
「測量船」だったんですね。
●この後、達治は鳴かず飛ばずで、
書生生活から抜け出せません。俗にいうスランプです。
婚約者萩原アイとの結婚は、
書生だから経済力がなくでダメ出し、
なら出版社につとめたるわ、と意気込んだらその出版社が倒産。
作品は軽い、などと酷評され、散々。
見合いで結婚するも、家を構える気になれず
信州の温泉を転々としたり
(「雨後」はそこで書いた。)、
小石川に住んだり、中野に住んだり、京都に住んだり。
さすらいの人生が運命だったんですな。
●そうこうするうちに
盟友梶井基次郎は亡くなり、
師萩原朔太郎は亡くなり、
気が告げばもう自分も不惑。
まだ書生みたいなもんだ、こら大変。
とここまでが三好達治第1期といわれています。
→ → → → → → → → → → →
●1939(昭和14)年2月。
南国小田原市に転居。
温暖な気候の海に近い街に住んだことで、達治の中の何かが変わった。
ここから復活ののろしが始まる。
●「艸千里(くさせんり)」「一点鐘」など、
これまでの難解な詩から
やまとことばでわかりやすく華麗な文体で表現することに、
変貌を遂げていく。
「木兎」
三好達治
木兎が鳴いてゐる
ああまた木兎が鳴いてゐる
古い歌
聽き慣れた昔の歌
お前の歌を聽くために
私は都にかへつてきたのか……
さうだ
私はいま私の心にさう答へる
十年の月日がたった
その間に 私は何をしてきたか
私のしてきたことといへば
さて何だらう……
一つ一つ 私は希望をうしなつた
ただそれだけ
木兎が鳴いてゐる
ああまた木兎が鳴いてゐる
昔の聲で
昔の歌を歌つてゐる
それでは私も
お前の眞似をするとしよう
すこしばかり歳をとつた
この木兎もさ
●この詩集は1944(昭和19)年刊行。
佐藤智恵子と結婚したのが、1934(昭和9)年。
「十年の月日がたった」って、そういうこと。
惚れぬいてでも添い遂げられなかった
萩原アイをあきらめられなかったのかな。
●「木兎」は、夫婦仲が壊れる象徴。
詩人しても停滞していた。
子供はかわいいが、いまいち家庭を安定させていける自信も
気持ちもナイ。
達治にとっては
鷗に「萩原アイ」や「さ迷い歩く三好達治」の姿も
重ねていたそうです。
折しも同じ小田原の市内に北原白秋が
「みみずくの家」という別荘を当時の奥さんと住むために、
建てたそうです。
しかし、ド派手な白秋の家づくりに辟易して、
大喧嘩して、わかれたきっかけになった、ということになった。
そんな風景も
当然、達治は知っていたでしょうな。
別の曲集「海に寄せる歌」の
「鷗どり」や「すでに鷗は」に、
「風の中で」愛しい人の名を叫び続ける哀しき存在、
飛び去った鷗。
でももう自分の歌には力も翼もないよ。
って感じですか。
●そんな達治ですが、
小田原の風景に心慰められ、ついに決心したようですね。
ええい、自分に正直に生きて、自分の愛しい人を、
自信を、どこにもない故郷を。
父を、母を、追い求める旅に出ようと。
測量船はもう出てしまった。
でも、「毀れた窓」
(別の曲集「追憶の窓」に収録)から
希望が見えるではないか。
と思ったんでしょうね。
1944(昭和19)年5月18日、
佐藤智恵子と協議離婚し、
直後の5月30日、福井県三国港で萩原アイと同棲。
翌年2月に別離。というかアイが逃げ出した。
●このあたり、萩原葉子「天上の花」を読むと、
よく事情がわかります。
→ → → → → → → → → → →
●次の2つの詩は、議論百出。
いろんな感情が、
押し寄せてまいります。
「鐘鳴りぬ」
三好達治
聽け
鐘鳴りぬ
聽け
つねならぬ鐘鳴りいでぬ
かの鐘鳴りぬ
いざわれはゆかん
おもひまうけぬ日の空に
ひびきわたらふ鐘の音を
鶏鳴か五暁かしらず
われはゆかん さあれゆめ
ゆるがせに聽くべからねば
われはゆかん
牧人の鞭にしたがふ仔羊の
足どりはやく小走りに
路もなきおどろの野ずゑ
露じもしげきしののめを
われはゆかん
ゆきてふたたび歸りこざらん
いざさらばうかららつねの
日のごとくわれをなまちそ
つねならぬ鐘の音聲
もろともに聽きけんをいざ
あかぬ日のつひの別れぞ
わがふるき日のうた――
●鐘なりぬの鐘とは、
出征兵士を見送る鐘の音といわれており、
異存がありませんが、
もうひとつ私見を加えると、
「甃のうへ」でしづかであった風鐸さえも、
鳴ったんだなあ、
という感慨もあり、
時ここに至れりということもあったと思う。
●「鶏鳴(けいめい)か五暁(ごぎょう)かしらず」は、
中国の故事に詳しい達治ならではの表現、
ざっくりいうと午前2時と午前4時ごろ。早朝ですね。
●「われはゆかん牧人の鞭(無知?)
にしたごう子羊(若者の象徴)の足取り早く小走りに」
掛詞あり。
(そもそも日本の牧場には羊ではなく、牛馬しかいないよね。
戦力にならない存在しか残ってないやん、の、皮肉?)
検閲を潜り抜ける。
若い時聖書に親しんだ達治なら、迷える子羊に見えただろう。
●このくだりは、「やまと」の「あわれ」「みやこ」を守りたい、
という熱い想いを完遂させるためには、
畢竟達治が生涯自分の生命をかけて
取り組んできた中国の古典も、フランス文学も、日本の古典もすべて捨ててもいい、
と決心させたのではないでしょうか。
だからそれらの自分は人生をかけて取り組んできたものは、
達治にとって大切な「わがふるき日のうた」だったんでしょうね。
●軍人としては、失敗した。
武力では国をもはや自分は守れない。
だから言葉の力(言霊)で守る、
という決意を彼らしい、
検閲を潜り抜け、大本営を煙に巻き、
風刺をきかせながらも、時代の流れの中で行動した、
ととらえたいです。
達治は古今集(掛詞全盛)、中国の古典(特に唐時代の詩聖杜甫)に詳しかった。
杜甫は若いころうだつがあがらず、遅くして役人になったが
政治の混乱に巻き込まれ、
失意のうちに四川(中国の田舎)の地に逃れた。
そこで、言葉の力で政治家の善政を鼓舞し、
国の安定を願う、ということに生涯をかけた
生涯がさすらいの中にあった詩人といわれています。
大酒のみでもあった。
そんなところが、
達治には自分の人生とかぶるところが
あったに違いありません。
そして1945年。敗戦。
その弐へとつづく。
おわり。
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